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坊っちゃん 九 Botchan Chapter IX (5)
夏目漱石 Soseki Natsume
青空文庫 AOZORA BUNKO
芸者が来たら座敷中急に陽気になって、一同が鬨《とき》の声を揚《あ》げて歓迎《かんげい》したのかと思うくらい、騒々《そうぞう》しい。
そうしてある奴はなんこを攫《つか》む。その声の大きな事、まるで居合抜《いあいぬき》の稽古《けいこ》のようだ。
こっちでは拳《けん》を打ってる。よっ、はっ、と夢中《むちゅう》で両手を振るところは、ダーク一座の操人形《あやつりにんぎょう》よりよっぽど上手《じょうず》だ。
向うの隅《すみ》ではおいお酌《しゃく》だ、と徳利を振ってみて、酒だ酒だと言い直している。
そのうちで手持無沙汰《てもちぶさた》に下を向いて考え込んでるのはうらなり君ばかりである。
自分のために送別会を開いてくれたのは、自分の転任を惜《おし》んでくれるんじゃない。みんなが酒を呑《の》んで遊ぶためだ。
こんな送別会なら、開いてもらわない方がよっぽどましだ。
しばらくしたら、めいめい胴間声《どうまごえ》を出して何か唄《うた》い始めた。
おれの前へ来た一人の芸者が、あんた、なんぞ、唄いなはれ、と三味線を抱《かか》えたから、
"If one can go round and meet the one he wants, banging gongs and drums ......bang, bang, bang, bang, bing, shouting after wandering Santaro, there is some one I'd like to meet by banging round gongs and drums ......bang, bang, bang, bang, b-i-n-g." 金《かね》や太鼓《たいこ》でねえ、迷子の迷子の三太郎と、どんどこ、どんのちゃんちきりん。叩いて廻って逢《あ》われるものならば、わたしなんぞも、金や太鼓でどんどこ、どんのちゃんちきりんと叩いて廻って逢いたい人がある、
すると、いつの間にか傍《そば》へ来て坐った、野だが、鈴ちゃん逢いたい人に逢ったと思ったら、すぐお帰りで、お気の毒さまみたようでげすと相変らず噺《はな》し家みたような言葉使いをする。
野だは頓着《とんじゃく》なく、たまたま逢いは逢いながら……と、いやな声を出して義太夫《ぎだゆう》の真似《まね》をやる。
おきなはれやと芸者は平手で野だの膝《ひざ》を叩いたら野だは恐悦《きょうえつ》して笑ってる。
鈴ちゃん僕が紀伊《き》の国を踴《おど》るから、一つ弾《ひ》いて頂戴と云い出した。
向うの方で漢学のお爺《じい》さんが歯のない口を歪《ゆが》めて、そりゃ聞えません伝兵衛《でんべい》さん、お前とわたしのその中は……とまでは無事に済《すま》したが、それから? と芸者に聞いている。
近頃《ちかごろ》こないなのが、でけましたぜ、弾いてみまほうか。よう聞いて、いなはれや
――花月巻《かげつまき》、白いリボンのハイカラ頭、乗るは自転車、弾くはヴァイオリン、半可《はんか》の英語でぺらぺらと、I am glad to see you と唄うと、
博物はなるほど面白い、英語入りだねと感心している。
山嵐は馬鹿に大きな声を出して、芸者、芸者と呼んで、おれが剣舞《けんぶ》をやるから、三味線を弾けと号令を下した。
芸者はあまり乱暴な声なので、あっけに取られて返事もしない。
山嵐は委細構わず、ステッキを持って来て、踏破千山万岳烟《ふみやぶるせんざんばんがくのけむり》と真中《まんなか》へ出て独りで隠《かく》し芸を演じている。
ところへ野だがすでに紀伊《き》の国を済まして、かっぽれを済まして、棚《たな》の達磨《だるま》さんを済して丸裸《まるはだか》の越中褌《えっちゅうふんどし》一つになって、棕梠箒《しゅろぼうき》を小脇に抱《か》い込んで、日清談判破裂《はれつ》して……と座敷中練りあるき出した。
おれはさっきから苦しそうに袴も脱《ぬ》がず控えているうらなり君が気の毒でたまらなかったが、
なんぼ自分の送別会だって、越中褌の裸踴《はだかおどり》まで羽織袴で我慢《がまん》してみている必要はあるまいと思ったから、
そばへ行って、古賀さんもう帰りましょうと退去を勧めてみた。
するとうらなり君は今日は私の送別会だから、私が先へ帰っては失礼です、どうぞご遠慮《えんりょ》なく
なに構うもんですか、送別会なら、送別会らしくするがいいです、
あの様をご覧なさい。気狂会《きちがいかい》です。さあ行きましょうと、
進まないのを無理に勧めて、座敷を出かかるところへ、野だが箒を振り振り進行して来て、
やご主人が先へ帰るとはひどい。日清談判だ。帰せない
おれはさっきから肝癪《かんしゃく》が起っているところだから、
日清談判なら貴様はちゃんちゃんだろうと、いきなり拳骨《げんこつ》で、野だの頭をぽかりと喰《く》わしてやった。
野だは二三秒の間毒気を抜かれた体《てい》で、ぼんやりしていたが、おやこれはひどい。お撲《ぶ》ちになったのは情ない。
この吉川をご打擲《ちょうちゃく》とは恐れ入った。いよいよもって日清談判だ。
とわからぬ事をならべているところへ、うしろから山嵐が何か騒動《そうどう》が始まったと見てとって、剣舞をやめて、飛んできたが、
このていたらくを見て、いきなり頸筋《くびすじ》をうんと攫《つか》んで引き戻《もど》した。
日清……いたい。いたい。どうもこれは乱暴だと振りもがくところを横に捩《ねじ》ったら、すとんと倒《たお》れた。
途中《とちゅう》でうらなり君に別れて、うちへ帰ったら十一時過ぎだった。
Copyright (C) Soseki Natsume, Yasotaro Morri, J. R. KENNEDY