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坊っちゃん 九 Botchan Chapter IX (2)

夏目漱石 Soseki Natsume

青空文庫 AOZORA BUNKO
おれが増給を断《こと》わったと話したら、大将大きに喜んでさすが江戸っ子だ、えらいと賞《ほ》めてくれた。
 うらなりが、そんなに厭《いや》がっているなら、なぜ留任の運動をしてやらなかったと聞いてみたら、うらなりから話を聞いた時は、既《すで》にきまってしまって、校長へ二度、赤シャツへ一度行って談判してみたが、どうする事も出来なかったと話した。
それについても古賀があまり好人物過ぎるから困る。
あの弁舌に胡魔化されて、即席《そくせき》に許諾《きょだく》したものだから、あとからお母《っか》さんが泣きついても、自分が談判に行っても役に立たなかったと非常に残念がった。
 今度の事件は全く赤シャツが、うらなりを遠ざけて、マドンナを手に入れる策略なんだろうとおれが云ったら、
無論そうに違いない。あいつは大人《おとな》しい顔をして、悪事を働いて、
人が何か云うと、ちゃんと逃道《にげみち》を拵《こしら》えて待ってるんだから、よっぽど奸物《かんぶつ》だ。
あんな奴にかかっては鉄拳制裁《てっけんせいさい》でなくっちゃ利かないと、
瘤《こぶ》だらけの腕《うで》をまくってみせた。
おれはついでだから、君の腕は強そうだな柔術《じゅうじゅつ》でもやるかと聞いてみた。
すると大将二の腕へ力瘤を入れて、ちょっと攫《つか》んでみろと云うから、
指の先で揉《も》んでみたら、何の事はない湯屋にある軽石の様なものだ。
 おれはあまり感心したから、君そのくらいの腕なら、赤シャツの五人や六人は一度に張り飛ばされるだろうと聞いたら、
無論さと云いながら、曲げた腕を伸《の》ばしたり、縮ましたりすると、力瘤がぐるりぐるりと皮のなかで廻転《かいてん》する。すこぶる愉快《ゆかい》だ。
山嵐の証明する所によると、かんじん綯《よ》りを二本より合せて、この力瘤の出る所へ巻きつけて、うんと腕を曲げると、ぷつりと切れるそうだ。
かんじんよりなら、おれにも出来そうだと云ったら、
出来るものか、出来るならやってみろと来た。
切れないと外聞がわるいから、おれは見合せた。
 君どうだ、今夜の送別会に大いに飲んだあと、赤シャツと野だを撲《なぐ》ってやらないか
と面白半分に勧めてみたら、
山嵐はそうだなと考えていたが、今夜はまあよそうと云った。
なぜと聞くと、今夜は古賀に気の毒だから
――それにどうせ撲るくらいなら、あいつらの悪るい所を見届けて現場で撲らなくっちゃ、こっちの落度になるからと、分別のありそうな事を附加《つけた》した。
山嵐でもおれよりは考えがあると見える。
 じゃ演説をして古賀君を大いにほめてやれ、
おれがすると江戸っ子のぺらぺらになって重みがなくていけない。
そうして、きまった所へ出ると、急に溜飲《りゅういん》が起って咽喉《のど》の所へ、大きな丸《たま》が上がって来て言葉が出ないから、君に譲《ゆず》るからと云ったら、
妙な病気だな、じゃ君は人中じゃ口は利けないんだね、
困るだろう、と聞くから、何そんなに困りゃしないと答えておいた。
 そうこうするうち時間が来たから、山嵐と一所に会場へ行く。
会場は花晨亭《かしんてい》といって、当地《ここ》で第一等の料理屋だそうだが、おれは一度も足を入れた事がない。
もとの家老とかの屋敷《やしき》を買い入れて、そのまま開業したという話だが、なるほど見懸《みかけ》からして厳《いか》めしい構えだ。
家老の屋敷が料理屋になるのは、陣羽織《じんばおり》を縫《ぬ》い直して、胴着《どうぎ》にする様なものだ。
 二人が着いた頃《ころ》には、人数《にんず》ももう大概《たいがい》揃《そろ》って、
五十畳《じょう》の広間に二つ三つ人間の塊《かたまり》が出来ている。
五十畳だけに床《とこ》は素敵に大きい。
おれが山城屋で占領《せんりょう》した十五畳敷の床とは比較にならない。
尺を取ってみたら二間あった。
右の方に、赤い模様のある瀬戸物の瓶《かめ》を据《す》えて、その中に松《まつ》の大きな枝《えだ》が挿《さ》してある。
松の枝を挿して何にする気か知らないが、何ヶ月立っても散る気遣いがないから、銭が懸らなくって、よかろう。
あの瀬戸物はどこで出来るんだと博物の教師に聞いたら、
あれは瀬戸物じゃありません、伊万里《いまり》ですと云った。
伊万里だって瀬戸物じゃないかと、云ったら、博物はえへへへへと笑っていた。
あとで聞いてみたら、瀬戸で出来る焼物だから、瀬戸と云うのだそうだ。
おれは江戸っ子だから、陶器《とうき》の事を瀬戸物というのかと思っていた。
 
Copyright (C) Soseki Natsume, Yasotaro Morri, J. R. KENNEDY
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