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A Dog of Flanders 5 フランダースの犬


Ouida ウィーダ
AOZORA BUNKO 青空文庫
 ただ、パトラッシュには、一つだけ気がかりなことがありました。それは、こんなことでした。
誰でも知っているように、アントワープの町には、あちこちに古い、黒ずんだ、古風な、でも荘厳な石造りの教会がいっぱいあります。曲がりくねった路地の奥の中庭に建っているのもあれば、屋敷の門や居酒屋に挟まれて建っているのもありましたし、運河のほとりに建っているのもありました。塔から鐘の音が空に鳴り響き、アーチ形の扉から音楽がもれ聞こえてくることがありました。
現代の商業の都のむさくるしさ、あわただしさ、人混みの多さ、みにくさの中で、大きな古い聖地が残されていました。一日中、塔の上では雲がたなびき、鳥は円を描いて飛び、風がそよぎます。そして、その聖地の地下には、ルーベンスが眠っていたのです。
 この傑出した巨匠の偉力は、今でもアントワープの町に残っています。狭い道に入り込むと、いつもルーベンスの栄光がそこかしこに感じられます。そして、どんないやしいものでも、ルーベンスの栄光によって変容するのです。曲がりくねった道を進むとき、淀んだ運河の水のそばにたたずむとき、そして騒がしい中庭を過ぎるとき、ルーベンスの魂が私たちにまとわりつき、ルーベンスの堂々とした美の幻影が、私たちのそばにあります。そして、かつてルーベンスの足取りを感じ、ルーベンスの影を映した石畳は、今にも起きあがって生き生きした声でルーベンスについて語り出すように思われるのです。
ルーベンスのお墓があるというだけで、アントワープの町は今も有名です。
 その大きな白い墓の近くは、とてもひっそりと静まり返っています。ときおりオルガンの音や聖歌隊が「たたえよ、マリア」や、「主よ、あわれみたまえ」を歌う音が聞こえるのを除いては。
ルーベンスが生まれたアントワープの町のまん中に位置する聖ジャック教会の内陣にある、真っ白な大理石でできたお墓以上に立派なお墓を持つ芸術家はいません。
 ルーベンスがいなければ、アントワープの町は何だったというのでしょうか? 
波止場で商売をする商人を別にすると、誰も見たいとは思わないような、薄汚くて薄暗い、騒々しい市場に過ぎません。
ルーベンスがいたからこそ、アントワープの町は、世界中にとって、神聖な名前であり、神聖な土地であったのです。芸術の神様、ルーベンスがこの世に生まれたベツレヘムであり、芸術の神様、ルーベンスが亡くなったゴルゴダだったのです。
 国よ! あなたは国に生まれた偉人を大切にしなければなりません。というのは、未来の人は、ただ偉人によってだけ国を知るからです。
この時代のフランダースの人たちは賢明でした。
ルーベンスが生きている間、アントワープの町は、アントワープが生んだ最も偉大な息子に名誉を与えました。そして、ルーベンスの死後は、アントワープの町はその名前を賛美します。
けれども、実を言うと、フランダースの人たちがこのように賢明だったことは、めったにありませんでした。
 さて、パトラッシュの問題というのは、次のようなものでした。
子どものネロは、むらがりあっている屋根の中でひときわ大きくそびえ立つ、この大きな、陰気でもの悲しい、石造りの教会の中に、幾度となく入っていきました。一方、パトラッシュは一人歩道に取り残されました。そして、退屈しながら、ちょっとの間でも離れていたくない、大好きな友だちを惹きつけ、パトラッシュから離れさせているものが一体全体何だろうか、とじっと考え込みましたが、無駄なことでした。
一、二度、パトラッシュは自分自身で何が起こっているかを確かめようとしました。そして、ミルクの荷車を引きながら音を立てて階段を登っていきました。けれども、そうすると、パトラッシュは背の高い、黒い服と銀色の鎖を身に付けた守衛の人にすぐに追い返されました。パトラッシュは、小さい主人を問題に巻き込むことを恐れ、教会の中に入ろうとするのはやめて、少年が再び現れるまで、教会の前で根気強く待ったのでした。
パトラッシュを悩ませたのは、教会に入れなかったことではありませんでした。パトラッシュは人間が教会に行く、ということは知っていました。村人たちは、みんな、赤い風車小屋の反対側にある、小さな、今にも潰れそうな、灰色の教会に行っていました。
パトラッシュを悩ませたのは、ネロが教会から出てきたとき、とても様子が変だったからです。いつも、とても顔を真っ赤にするか、とても青白い顔をしていました。そして、そのように教会に行った後に家に帰るときは、いつもじっと座って、夢見るような様子でした。遊ぼうともせず、運河の向こうにある夕方の空をじっと見つめ、ふさぎ込んで、ほとんど悲しそうでした。
「いったいこれはどうしたことだろう?」、とパトラッシュは不思議に思いました。
パトラッシュは、小さな少年がそんなに深刻になることは、よいことではないし、普通ではないことだ、と思いました。そこで、パトラッシュは、ものは言えませんでしたが身振りでなんとかネロを日なたの野原やにぎやかな市場に誘おうと一生懸命努力しました。
けれども、ネロはどうしても教会に行くのでした。最も頻繁に行くのは、大きな大聖堂でした。そして、パトラッシュは、クウェンティン・マーシス(十五~十六世紀に活躍したフランダース地方の画家)の墓に通じる壊れかけた鉄の門の近くにある石畳の上に取り残されるのでした。そこでパトラッシュは背中を伸ばし、あくびをし、ため息をつき、吠えたりもしましたが、無駄なことでした。そして、扉が閉められる時間になって、ネロが仕方なしに出てくると、パトラッシュの首に抱きついて、広い茶色の額にキスをしてくれます。そして、いつも同じことばをつぶやくのでした。「パトラッシュ、あれを見ることができたらなあ。あれを見ることができたらいいのに」
「あれ、ってなんだろう?」、とパトラッシュは思いました。そして、大きな、思いこがれた、同情的な目でネロを見上げました。
 
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