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A Dog of Flanders 6 フランダースの犬


Ouida ウィーダ
AOZORA BUNKO 青空文庫
 ある日、門番が扉を半開きにしたままで立ち去ったとき、パトラッシュは、小さな友人の後を追って様子を見るために、教会に入りました。
「あれ」というのは、聖歌隊席の両側にある、布で覆われた二つの名画のことでした。
 ネロはうっとりと無我夢中で祭壇の聖母被昇天の絵の前にひざまずいていました。ネロはパトラッシュに気がつくと、起きあがって、やさしくパトラッシュを外に連れていきました。ネロの顔は涙で濡れていました。そして、名画の前を通り過ぎる時、それを見上げ、パトラッシュにつぶやきました。「あれを見られないなんて、ひどいよ、パトラッシュ。ただ貧乏でお金が払えないからといって!
 ルーベンスは、絵を描いたとき、貧しい人は絵を見ちゃいけないなんて、夢にも思わなかったはずだよ。ぼくには分かるんだ。
ルーベンスなら、毎日、いつでも絵を見せてくれたはずだよ。絶対そうだよ。
なのに、絵を覆うなんて! あんなに美しいものを、覆って暗闇の中に置いておくなんて! 絵は、人の目に触れることがないんだよ。誰もあの絵を見る人はいないんだよ。金持ちの人が来てお金を払わない限り。
もし、あれを見ることができるのなら、ぼくは喜んで死ぬよ」
 けれども、ネロはその絵を見ることができませんでした。そして、パトラッシュはネロを助けることができませんでした。というのは、教会が「キリスト昇架」と「キリスト降架」の名画を見るための料金として要求している銀貨を得ることは、大聖堂の尖塔のてっぺんによじ登ることと同じくらい、二人の手に余ることでした。
二人には、節約する小銭さえありませんでした。ストーブにくべる少しばかりの薪や、なべに煮るわずかのスープを買うのが精一杯でした。
それでも子供の心は、何とかしてあのルーベンスの二枚の名画を見たい、というあこがれに満たされていました。
 小さなアルデンネ生まれの少年の魂は、芸術に対する激しい情熱でいっぱいでした。
まだ日も昇らず、みんな起きない早朝からミルクを引いている大きな犬を連れて、ミルクを運んで売るために家々を回っていたネロは、一見ただの小さな農民の少年に見えましたが、ルーベンスが神様である、夢の天国に住んでいました。
ネロは、こごえておなかをすかし、靴下も着けずに木靴をはいて、冬の風が巻き毛をけちらし、みすぼらしく薄い外套を巻き上げましたが、うっとりともの思いにふけっていたのです。ネロが見るものすべては、「聖母被昇天」の絵に描かれたマリア様の美しい顔でした。マリア様は、波打つ金髪が肩にかかり、永遠に輝く太陽の光がひたいを照らしていました。
 ネロは、貧しく育ち、運命にもてあそばれ、読み書きも教えられず、誰にも顧みられませんでしたが、その見返りに、いや、災いだったかも知れませんが、「天才」と呼ばれる才能を授かっていました。
誰もそのことを知りませんでした。ネロ自身も全く。誰もそのことを知りませんでした。
 ただ、パトラッシュだけが、いつもネロと一緒にいたので、ネロがあらゆる動物や植物の姿をチョークで石畳に描いていたのを見ていました。そして、乾し草の寝床で、ネロがおずおずと、痛ましい様子で偉大なルーベンスにお祈りを捧げるのも聞いていました。また、夕日が空をまっかに染めるとき、朝空がばらのよう輝くとき、ネロがそれを夢中で眺め、顔が輝く様子も見守っていました。そして、苦悩と喜びが不思議に入り交じった名前のつけようのない涙がネロの輝く若い目から熱くあふれ出し、パトラッシュのしわだらけの黄色い額にこぼれ落ちることも、しばしばあったのです。
「ネロや、おまえが大きくなって、この小屋と小さな畑を自分で持って、自分で働いて、近所の人からだんな、と呼ばれるようになったら、わしも安心してお墓にいけるというものだよ」 ジェハンじいさんは、ベッドに横になりながらよくこういったものでした。
というのは、ちょっとした土地を自分で持って、まわりの村人たちからだんな、と呼ばれるのが、フランダースの百姓にとって、最高の夢だったからです。ジェハンじいさんは、兵士として若い頃はいろんな土地をあてもなくさまよって、何も持ち帰りませんでしたが、年をとると、同じ場所につつましやかに満足して暮らすことが、望みうるもっともよい運命であると考えるようになったのです。
けれども、ネロは何も言いませんでした。
 その昔活躍したルーベンスやヨルダンス、ヴァン・アイク、そのほか驚異の種族と同じ天分が、ネロの中に息づいていました。近年では、ディジョンの町の古い城壁をムーズ川が洗う、緑のアルデンヌ地方は、英雄パトロクロス(ギリシャ神話の英雄で、アキレスの親友)を描いた偉大な芸術家を生み出しています。けれども、その画家は私たちの時代に近すぎて、その才能を適切に評価することは難しいのです。
 ネロの夢は、ちっぽけな畑を耕し、かやぶきの屋根に住み、自分よりすこし貧しいか、豊かな近所の人たちから「だんな」と呼ばれることではありませんでした。
真っ赤な夕焼けの空のかなたに、あるいは灰色に霧がかった朝もやのかなたにそびえる大聖堂の尖塔がネロに語りかけるのは、これとは少し違った夢でした。
けれども、この夢を、ネロはパトラッシュだけに話しました。夜明けの霧の中を仕事に出かけるとき、あるいは、水辺にそよぐイグサの中でいっしょに横になって休んでいるとき、ネロは、子どもっぽく自分の空想を犬の耳元でささやきました。
 というのは、そのような夢をなかなか理解してくれない人が聞き手の場合は、夢を具体的に言葉にして話すことは、簡単ではなかったからです。そして、そんな夢をジェハンじいさんに話すのは、部屋の片隅で寝たきりの、この貧しい老人を困らせるだけだったでしょう。というのは、ジェハンじいさんは、アントワープの町にでかけたとき、わずかなお金で黒ビールを飲むことがありましたが、そのようなときに見る居酒屋の壁に青と赤で書かれている下手くそな聖母マリアの絵だって、祭壇の有名な絵と同じくらい結構なものだと思っていたのですから。そのような有名な絵を見るために世界中からはるばる旅をして、フランダース地方に来る人も大勢いたというのに。
 
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