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The Old Man and the Sea 15 老人と海


Ernest Miller Hemingway アーネスト・ヘミングウェイ
AOZORA BUNKO 青空文庫
 老人は大きな魚をたくさん見てきた。
千ポンド以上の魚に何度も出会ったし、その大きさのものを捕らえたことも生涯に二度ある。しかし、その時は一人ではなかった。
今は一人だ。陸地も見えない場所で、これまで見たうちで最も大きく、これまで聞いたことのあるどの魚よりも大きい相手に、彼はしがみついていた。左手はまだ、握られた鷲の鉤爪のようにこわばっている。
 だが引きつりは治るだろう。彼は思った。
きっと治って、右手を助ける。
あの魚とこの二本の手は、いわば三兄弟だ。
必ず治る。引きつりはこの手にはふさわしくないんだ。
魚は再び速度を落とし、元のペースに戻っていた。
 なぜ奴は跳ねたんだ。老人は考えた。
まるで、自分のでかさを見せつけるようだった。
とにかく、これで分かった。こっちも、俺がどんな人間か見せつけてやりたいものだ。
だがそうすると、引きつった手を見られることになる。俺を俺以上に見せなければいかん。
そして実際、俺は俺以上になるんだ。あの魚になりたい、と彼は思った。意志と知力しか持たない俺に向かって、持てる全てでぶつかってくるあの魚に。
 老人は楽な姿勢で船べりにもたれ、襲ってくる痛みに耐えた。魚は弛みなく泳ぎ、船は暗い海をゆっくりと進む。
東から吹いてきた風で、海面は少し波立っていた。正午には、老人の左手は治った。
「お前には悪い知らせだな」そう言いながら、彼は肩を覆う袋の上のロープの位置をずらした。
 彼は楽にしていたが、痛みはあった。しかし自分では、痛いことを全く認めなかった。
「俺は信心深くはないが」彼は言った。「奴を捕まえられるように、『主の祈り』を十回と、『アヴェ・マリア』を十回唱えよう。そして捕まえた暁には、きっとコブレの聖母にお参りする。誓ってそうする」
 彼は祈りの言葉を機械的に唱え始めた。
あまりの疲労で、何度か文句を思い出せなくなったが、そういう時は言葉がひとりでに出てくるように早口で唱えるのだった。
『主の祈り』より『アヴェ・マリア』のほうが唱えやすいようだ。
「めでたし、聖寵充ち満てるマリア、主御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子イエズスも祝せられ給う。天主の御母聖マリア、罪人なるわれらのために、今も臨終のときも祈り給え。アーメン」
そして付け加えた。「聖母よ、この魚の死のために、祈り給え。素晴らしい魚ですがね」
 祈りを唱えていると気分は良くなったが、痛みは変わらず、むしろ少し増したようでもあった。彼は舳先の板にもたれて、特に意識することなく、左手の指を動かし始めた。
 穏やかな風が出てきたが、太陽はもう熱い。
「短いロープにまた餌をつけて、船尾から垂らしておいたほうがいいな」彼は言った。
「あの魚がもう一晩耐えるつもりなら、また食う必要が出るだろう。水も残り少ない。
ここじゃシイラしか釣れないだろうが、活きのいい奴なら不味くはない。
今夜あたり、トビウオが船に飛び込んでくれたら有難いな。
光も無いのに寄っては来ないだろうが。
生で食うトビウオは最高だし、さばく手間も省ける。
とにかく力を温存しなけりゃならんからな。畜生、奴があんなにでかいとは思わなかった」
「だが、俺は奴を殺す」彼は言った。「栄光に輝いているあいつを」
 不当なことではある、と彼は思った。だが俺は、人間に何ができるか、人間がどれだけ耐えられるのか、奴に教えてやるんだ。
「俺はおかしな年寄りなんだと、あの子に話したことがあったな」彼は言った。
「今がそれを証明する時だ」
 これまで彼が何千回も成し遂げてきた証明など、意味を持たない。いま彼は改めて証明しようとしていた。
一回一回が新しい時だ。事をなそうとする時、彼は決して過去のことなど考えない。
 奴が眠ってくれたらいい。そうすれば俺も眠って、ライオンの夢を見られる。彼はそう思った。
なぜ俺の夢にはライオンだけが残ったのだろう。
考えるな、爺さん。彼は自分に言い聞かせた。板にもたれてゆっくり休んで、今は何も考えないのがいい。
奴は動いている。お前は、なるべく動かないようにするんだ。
 午後になろうとしていたが、船は変わらずゆっくり着実に移動していた。
 
Copyright (C) Ernest Miller Hemingway, Kyo Ishinami
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