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The Old Man and the Sea 14 老人と海


Ernest Miller Hemingway アーネスト・ヘミングウェイ
AOZORA BUNKO 青空文庫
「さあ」彼は言った。「もうロープを放してしまえ。お前が間抜けなことをやめるまで、俺は右手だけで奴を制してやる」
彼は、左手が握っていた重いロープを左足で押さえ、背中にかかる力に抵抗して後方に体重をかけた。
「引きつりが治ることを祈る」彼は言った。「なにしろ、奴がどうするつもりなのか分からないからな」
 それにしても奴は落ち着いている。彼は考えた。計画通りということか。
だが、どんな計画だろう、と彼は思った。そして俺の計画はどうなんだ。
俺は奴に合わせて即席でやるしかない。奴はでかいからな。奴が跳ね上がれば、殺すことができる。
ところが奴はいつまでも深く潜っている。それなら、俺もいつまでも付き合おう。
 彼は、ひきつる左手をズボンにこすりつけ、指を鎮めようとした。しかし手は開かない。
日に当たっていれば開くだろう、彼はそう思った。
力のある生のマグロが消化されたら開くかもしれない。
開く必要があれば、何が何でも開いてやるさ。
だが、いま無理やり開こうとは思わん。
自然に開いて、ひとりでに元に戻るのが一番だ。
やはり夜のうちに酷使しすぎたか。いくつもロープを切ったりほどいたりしなけりゃいけなかったからな。
 老人は海を見渡して、今の自分がどれほど孤独かを思った。
だが彼は、深く暗い水の中のプリズム、前方に延びたロープ、凪いだ海の奇妙なうねりを、眺めることができた。
雲は貿易風によって成長していく。前方に目を向けると、海上に広がる空に、鴨の群れが飛ぶ様子がくっきりと刻まれて見えた。その姿はやがてぼやけ、そして再びくっきりと現れた。彼は、海の上では孤独な者などいないのだと思った。
 小さな船に乗っていて陸地が視界から消えると、やたらと怖がる連中もいる。確かに、天候の急変がある季節ならそれは正しい。
しかし今はハリケーンの季節だ。ハリケーンの季節にハリケーンが来ていなければ、一年で最高の時期なんだ。
 ハリケーンが来ている時は、何日も前から空にその兆候が見える。沖に出ていればな。
陸からでは何を探していいか分からないだろう。彼はそう思った。
それに、陸地の存在が雲の形に影響してしまう。
ともかく、今はハリケーンは来ていない。
 彼は空を見た。白い積雲が、よくあるアイスクリームのように積み重なっている。さらに上には、九月の高い空を背景にして、巻雲が羽毛のように細く伸びている。
「軽風だ」彼は言った。「魚よ、天気はお前より俺に味方しているな」
 まだ引きつっている左手を、彼はゆっくりほぐそうとしていた。
 引きつりは大嫌いだ、と彼は思った。これは自分の体の裏切りだ。
食中毒になって人前で戻したり腹を下したりするのも恥ずかしいが、
特に独りのときには、引きつりこそ――老人の言葉で言えば「カランブレ」こそ――屈辱なんだ。
 あの子がここにいれば、肘から先を揉んでほぐしてくれるんだがな。
まあ、じきにほぐれるだろう。
 その時、右手に感じるロープの引きに変化が生じた。見ると、水中へ伸びる傾斜の角度が変わっている。
彼はロープに体重をかけて引きながら、左手を素早く強く太腿に叩きつけた。ロープがゆっくりと傾きを変え、水平に近づくのが見えた。
「奴が来る」彼は言った。「手よ、頼むぞ。しっかりしてくれ」
 ロープはゆっくり確実に上がってくる。やがて、船の前方の海面がゆらめき、魚が姿を現した。
さらに浮上は止まらず、水が体の左右に流れ落ちる。
魚は太陽の下で輝いた。頭と背は暗い紫色だ。側面の幅広い縦縞は、光に照らされて明るい薄紫に見えた。
くちばしは野球のバットのように長く、剣のように尖っていた。魚は全身を露わにする高さまで水面から跳ねると、ダイバーのように滑らかに、再び潜っていった。老人は大鎌の刃のような尾が沈んでいくのを見た。そしてロープが走り始める。
「この船より二フィートはでかいな」老人は言った。
ロープは素早く、しかし一定の速さで出て行く。魚に動揺は無い。
老人は両手を使って、ロープが切れないように力を調節しようとした。
一定の力で引いて速度を落としてやらなければ、魚はロープを全て引っ張り出し、ついにはちぎってしまう。
 大した魚だ。が、思い知らせてやらねばいかん。彼は思った。奴自身の力に気づかせてはいけないし、突っ走ればどうにかなると悟られてもいけない。
俺が今の奴の立場なら、当たって砕ける覚悟で全力を尽くすだろう。
しかしありがたいことに、奴らには、殺す側の人間ほどの知性はない。気高さや能力では奴らのほうが上だが。
 
Copyright (C) Ernest Miller Hemingway, Kyo Ishinami
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