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The Old Man and the Sea 13 老人と海


Ernest Miller Hemingway アーネスト・ヘミングウェイ
AOZORA BUNKO 青空文庫
 長居はしなかったんだな、老人は思った。
しかし岸までの道のりはもっと辛いぞ。
魚に引っ張られて手を切るなんて、俺は何をやってるんだ。ずいぶん馬鹿になったもんだ。
いや、きっと小鳥のことなんか考えていたせいだな。
自分の仕事に集中しよう。力が抜けてしまわないように、マグロを食わなければ。
「あの子がここにいてくれたら。それに、塩があったらなあ」彼は声に出してそう言った。
 ロープの重みを左肩に掛けかえ、慎重に膝をついて、彼は海水で手を洗った。そしてしばらく海の中に手を浸して、自分の血が水中に尾を引く様子を見ながら、船の動きが生む水の抵抗をその手に感じ続けていた。
「ずいぶん速度が落ちたな」彼は言った。
 もう少し手を塩水に浸しておきたいと思ったが、老人は、また魚が突然ふらついたりすることを心配した。彼は立ち上がって気を引き締め直し、手を太陽にかざした。
ロープにこすれて皮膚が切れたにすぎない。
しかし、大事な部分だ。仕事を終えるには両手が必要なのだから、始める前から怪我をすることは避けたかった。
「さあ」手が乾くと彼は言った。「小さいマグロを食わなきゃいかん。手鉤を使えば届くな。このままここで食おう」
 彼は膝をつき、船尾のマグロのほうに手鉤を伸ばした。そして予備のロープを避けつつマグロを引き寄せる。
再びロープを左肩で支え、左の手と腕に力を入れつつ、手鉤の先からマグロを外して、手鉤は元の場所に戻した。
片方の膝で魚を押さえる。そして頭の後ろから尾に向かって縦に刃を入れ、赤黒い魚肉を切り出した。
くさび形の塊だ。彼はそれを、背骨のそばから腹の方向へ切った。
六つの切り身ができると、それを舳先の板の上に並べる。ナイフをズボンで拭き、残った骨の尻尾をつまんで海に投げ捨てた。
「一切れ丸ごとは食べられんな」そう言って彼は、切り身の一つにナイフを入れた。
ロープは変わらず強く引き続けている。と、左手が引きつりを起こした。
重いロープをきつく握ったままの左手を、彼はうんざりして眺めた。
「なんて手だ」彼は言った。「つりたきゃつるがいい。鉤爪にでもなってしまえ。何の役にも立たないぞ」
 間抜けめ。そう思いながら彼は、斜めに走るロープの先の暗い海を見下ろした。
食わなきゃいかん、手に力をつけるんだ。手が悪いわけじゃない。もう長い時間、あの魚とこうしているんだからな。
永遠にでも続けてやる。さあ、マグロを食わねば。
 一切れをつまみあげ、口に入れて、ゆっくり噛んだ。まずくはない。
 よく噛んで、残らず栄養を吸収するんだ。彼は考えた。ライムかレモンか、塩でもあればいいんだが。
「具合はどうだ?」彼は、つっている手に向かって尋ねた。ほとんど死後硬直のように硬くなっている。「お前のために、もう少し食うからな」
 彼は、二つに切ったうちの残りの一切れを口に入れた。じっくりと噛んでから、皮を吐き出す。
「さあ、どうだ? そう早くは分からないか?」
 彼は次の切り身を取り、そのまま口に入れて噛んだ。
「力に溢れた強い魚だ」彼は思った。「シイラじゃなくこいつを釣れたのは幸運だったな。シイラでは味がいいだけだ。こいつは旨みとは無縁だが、力がいっぱいに詰まってる」
 しかし実際の味を全く無視するのも無粋というものだ、と彼は思った。塩があれば良かったんだが。
残しておくと、日に当たって腐るか干からびるか分からないし、腹は減っていなくとも全部食べてしまったほうがいいな。
あの魚は落ち着いて安定してる。食べてしまって、後に備えよう。
「手よ、耐えろ」彼は言った。「お前のために食うんだから」
 あの魚にも食わせてやりたい、と彼は思った。奴は我が兄弟だ。
しかし殺さなければいけない。そのためには強くいなければ。
ゆっくりと、念入りに噛んで、彼はくさび形の魚肉を全て食べ切った。
 彼は立ち上がり、ズボンで手を拭いた。
 
Copyright (C) Ernest Miller Hemingway, Kyo Ishinami
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