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The Old Man and the Sea 12 老人と海
Ernest Miller Hemingway アーネスト・ヘミングウェイ
AOZORA BUNKO 青空文庫
日の出前のこの時間は冷える。彼は船板に体を押し付けて寒さをしのいだ。
明け方の薄明かりの中で、ロープはまっすぐ水中へと走っている。
船は着実に移動を続ける。やがて太陽のふちが水平線から現れ、老人の右肩を照らした。
しかし潮の流れは、俺たちをずっと東まで運ぶだろうな。奴が流れに押されて向きを変えてくれるようだといいんだが。彼はそう考えた。
太陽がさらに昇り、老人は、魚は疲れてなどいないと知った。
魚の泳ぐ水深がやや浅くなっていることを、ロープの角度が示していたのだ。
だからと言って必ず跳ね上がるとは限らない。が、跳ね上がるかもしれない。
「どうか、跳ねてくれ」老人は言った。「奴を扱えるだけのロープは用意してある」
おそらく、俺がほんの少しロープの張りを強めるだけで、奴は痛がって跳ね上がるだろう。彼は考えた。
もう夜は明けたんだ、奴を跳ねさせてやろう。そうして奴の背骨近くの浮き袋が空気で膨れてしまえば、もう深く潜って死ぬことはできなくなる。
彼は張りを強めようとしたが、ロープは既に、ちぎれる寸前まで張り切っていた。あの魚が掛かってからずっとそうだったのだ。後ろへ体を傾けて引くと荒々しい手応えがあり、これ以上引っ張ることはできそうもない。
もし引けば、奴の傷が広がって、跳ね上がった時に鉤を振り落とされかねない。
ともかく、日が昇ってから俺の調子も良くなった。それに、もう太陽を直視しなくて済む。
ロープには黄色い海藻がまとわりついていた。魚にとっては重りが増えるだけだから、老人はむしろ喜んだ。
この黄色いホンダワラが、昨晩あれほど燐光を放っていたのだ。
「魚よ」彼は言った。「お前を愛してるし、心から尊敬してもいる。だが、俺はお前を必ず殺す。今日のうちにな」
小さな鳥が、船に向かって北のほうから飛んできた。鳴鳥の一種で、海上をかなり低く飛んでいる。
それから老人の頭のまわりを飛び、今度はもっと居心地の良さそうな、ロープの上にとまった。
「何歳だい?」老人は鳥に尋ねた。「旅は初めてか?」
疲れ果てて足場をあらためる余裕もない鳥は、華奢な足でしっかりロープを握って、その上で揺られている。
「その綱は丈夫だ」老人は鳥に言った。「かなり丈夫だぞ。昨晩は風も無かったのに、そんなに疲れていたらいかんな。この先どうするつもりだ?」
彼は、小鳥たちを狙って海にまで来る鷹のことを考えた。
しかし何も言わなかった。言っても鳥には理解できないし、言わなくてもすぐに分かることだ。
「小鳥よ、しっかり休んで行けよ」彼は言った。「それから陸のほうへ飛ぶんだ。後は運任せさ、人間も鳥も魚も同じだろう?」
会話は老人を元気づけた。彼の背中は夜のうちに硬くなって、いまやひどく痛んでいた。
「よかったら、家に泊まるといい」彼は言った。「しかし残念だが、帆を上げて陸まで連れてってやるというわけにはいかん。ちょうど風も出てきたところだがな。いかんせん、俺には連れがいるんだ」
その時、魚が突然ふらついて、老人は舳先に引き倒された。ふんばってロープを送り出したからよかったものの、そうしなければ水の中に引きずり込まれていただろう。
ロープが引っ張られたので小鳥は飛び立った。小鳥が去るのを見ている余裕は老人には無かった。
彼は右手で慎重にロープを握り、自分の手から血が流れていることに気付いた。
「奴は、どこか痛かったんだろうな」彼は声に出して言った。そして、魚の向きを変えられないかとロープを引っ張ってみた。
しかし、切れる寸前まで引くと、そこで張りを安定させ、後ろに体重をかけてロープを支えた。
「魚よ、そろそろこたえてきただろう」彼は言った。「本当のところ、俺も同じだ」
彼はあたりを見回して鳥を探した。仲間が欲しかったからだ。鳥はもういなかった。
Copyright (C) Ernest Miller Hemingway, Kyo Ishinami