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The Old Man and the Sea 11 老人と海


Ernest Miller Hemingway アーネスト・ヘミングウェイ
AOZORA BUNKO 青空文庫
奴は、滅多にいない素晴らしい魚だ。何歳ぐらいだろう。
こんなに強い魚も、こんなにおかしな動きをする魚も、今まで見たことがない。
きっと、賢いから飛び跳ねないんだろう。
奴が跳ね回って突っ込んでくれば俺なんか吹っ飛ばされるところだが、おそらく奴は前に何度も引っ掛けられて、これが一番の戦い方だと学習したんだ。
しかしまさか、自分の相手がたった一人で、しかも年寄りだとは分かるまい。
それにしてもでかい魚だ。肉の質さえ良ければ、市場でどれだけの高値になるか。
奴は男らしく餌に食いついて、男らしく引っ張っている。その戦い方には動揺がない。
何か考えがあるのだろうか、それとも、俺と同じでただ必死なだけなのか。
 老人は、つがいのカジキのうち一匹を引っ掛けた時のことを思い出した。
カジキのオスは、餌を見つけると必ずメスに先に食べさせる。だから引っ掛かったのはメスのほうで、パニックを起こして自暴自棄な暴れ方をしたので、すぐに力を使い果たしてしまった。オスのほうはその間ずっとメスのそばにいて、ロープの前を横切ったり、海面を一緒に旋回したりしていた。
オスがあまり近づくので、老人は、尾でロープを切られてしまわないか心配した。その尾は大鎌のように鋭く、大きさも形もほとんど大鎌そのものだったのだ。
老人はメスの体に手鉤を打ち、棍棒でなぐりつける。剣のようなくちばしの、ざらざらした刃先を捕まえながら、魚体の色が鏡の裏側のような銀色に変わるまでその頭を打った。それから少年の助けを借りて、魚を船に引き上げた。この間もずっと、オスのカジキは船のそばに留まっていたのだった。
老人がすぐにロープを片付けて銛を手に取ると、オスは船の間近で、メスの姿を確認できる高さまで跳ね上がった。そしてそのまま、深く潜って行ってしまった。翼のような胸びれを大きく広げ、薄紫色の縞模様を見せながら。
あいつは美しかった。最後まで寄り添ったんだ。
 あの時のことが、俺の経験の中で一番悲しい出来事だったな、老人はそう考えた。
あの子も悲しんでいたな。俺たちはメスに謝って、すぐにばらしてしまったんだった。
「あの子がここにいてくれたら」彼はそう言いながら、舳先でたわんだ船板に寄りかかった。肩にまわしたロープを通して、大魚の力が伝わってくる。どこへ向かっているのか、魚は自身の選んだ道を着実に進んでいた。
 俺の罠にかかって、進む道を選ばざるをえなかったのだ。老人はそう考えていた。
 奴が選んだのは、全ての誘惑や罠や欺きから遠く離れて、暗い海の深い所にとどまることだ。
俺が選んだのは、全ての人間を振り切って、世界中全ての人間を振り切って、奴を追いかけ、奴を見つけることだ。
それで俺たちは一緒にいる。昼からずっとだ。お互い、誰かの助けは期待できない身だな。
 ひょっとすると、漁師になんかならなきゃ良かったのかもしれん。彼は思った。
いいや、俺は、魚を獲るために生まれてきたんだ。
いいか、明るくなったらマグロを食うのを忘れるなよ、きっとだぞ。
 夜明け前、背後にある餌の一つに、何かが食いついた。
枝の折れる音が聞こえ、ロープが船べりを滑り出ていく。
老人は闇の中でナイフを鞘から抜いた。そして体を後ろに傾け、大魚の引っ張る力を左肩だけで支えながら、ロープを船べりの板に押しつけて切った。
それから、一番近くにあったロープも切り、控えのロープの末端同士を闇の中でしっかりと結びつけた。
片手だけで、巧みに作業を進める。結び目をきつく締める時には、足でロープを押さえるのだった。
これで、控えのロープが六本になった。
切り捨てた餌についていたものが二本ずつ。あの魚が食いついている餌のためのものが二本。既に全て繋いである。
 彼は思った。明るくなったら四〇尋の餌のところに戻って、それも切ってしまおう。そうすれば、そのロープも繋げる。
質の良いカタルーニャ製のコルデル(※ロープのこと)を二〇〇尋分と、鉤と鉤素とを失くすことになるな。
だが代わりがきく物だ。
別の魚を引っ掛けたせいで奴を逃がしたら、その代わりがいるか? 
今さっき何の魚が食いついたのか、それは分からん。マカジキかメカジキか、あるいはサメだったかもしれん。引いてもみなかった。
確かめるより先に、切り落とさなきゃいけなかったんだ。
 彼は声に出して言った。「あの子がいてくれたらなあ」
 しかしあの子はいない。彼は思った。
いるのはお前一人だ。暗くても構わず、最後のロープを切るのを今やってしまったほうがいい。切ってしまって、控えのロープ二本を繋ぐんだ。
 彼は実行した。闇の中では難しい作業だった。一度、魚がうねるように大きく動き、彼は顔から引き倒されて目の下を切った。
少しだけ頬に血が流れたが、顎に届く前に固まって乾いてしまった。何とか舳先まで戻り、船板にもたれて休んだ。
彼は、肩に当てた袋の位置を調整して、ロープの当たる場所を慎重に変えた。肩で支えるロープから伝わる引き具合を注意深く確かめつつ、片手を水に入れて船の進む速さを測った。
 なぜ奴は、急にあんなにふらついたんだろう。彼は思った。
きっと、大きく盛り上がった背中に針金がこすれたんだ。
俺の背中ほどひどい痛みではないだろうがな。
しかし奴がいくら立派だと言っても、この船を永遠に引き続けるわけにはいくまい。
もう心配なことは何もないし、控えのロープも十分にある。やれることは全てやった。
「魚よ」彼は声に出して、優しく言った。「俺は死ぬまでお前と一緒だ」
 奴もきっとそのつもりだろう、老人はそう思って、夜明けを待った。
 
Copyright (C) Ernest Miller Hemingway, Kyo Ishinami
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