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The Old Man and the Sea 10 老人と海
Ernest Miller Hemingway アーネスト・ヘミングウェイ
AOZORA BUNKO 青空文庫
「あの子がいてくれたらなあ」老人は声に出して言った。「魚に引っ張られて、これじゃ俺が曳航用の繋ぎ柱だ。
ロープを固定しようと思えばできるが、そうしたら奴に切られちまうだろう。
なんとしても、逃がすわけにはいかん。引っ張りたいならもっと伸ばしてやればいい。
ありがたいことに、奴は移動してはいるが深く潜ろうとはしていない」
底まで潜って死んでしまったらどうすべきか。分からない。
彼は背中でロープを支え、それが水の中へ斜めに延びている様子を見つめた。船は北西へ向けてゆっくり動いていく。
奴はいずれ死ぬ、老人はそう考えた。ずっとこうしていられるわけがない。
しかし四時間後、魚は変わらずゆっくりと、船を引きながら沖へ向けて泳ぎ続けていた。老人も変わらず、背中に回したロープをしっかり支えていた。
「奴を引っ掛けたのは正午だった」彼は言った。「なのに、俺はまだ一度も奴の姿を見ていない」
魚を引っ掛ける前に深くかぶり直した麦わら帽で、額が痛んだ。
のどもひどく渇いていた。彼は膝をついて、ロープを引っ張らないように注意しながらできるだけ舳先に近いところまで這って行き、片手を伸ばして水の瓶を取った。
栓を取り、少しだけ飲む。そして舳先に寄りかかって休んだ。
横たえてあるマストと帆の上に腰を下ろして、ただ耐えること以外考えないようにしていた。
日没まで二時間ある。それまでには奴も上がってくるだろう。
それにしても、この引きはどうだ。針金までしっかりくわえこんでいるんだ。
姿を見てやりたい。ひと目だけでも見て、俺の相手がどんな奴なのか知りたい。
老人が星を見て判断した限りでは、その夜、魚は進む方向を全く変えなかった。
太陽が沈むと寒くなった。汗は乾き、老人の背中や腕や老いた脚を冷やす。
彼は昼の間に、餌箱を覆っていた袋を取り、日なたに広げて乾かしておいた。
日が沈んでからそれを首に巻いて、背中のほうに垂らし、肩にかかっているロープの下に慎重に差し入れた。
これで袋がクッションになる。そうして、前向きに舳先へ寄りかかればだいぶ楽になる。
実際には、多少我慢しやすいという程度だったのだが、彼にはずいぶん楽になったように思えた。
俺には何もできない、が、奴にも何もできない。奴がこのまま泳ぎ続ける限りは、変わらないだろう。老人はそう考えていた。
彼は一度立ち上がって、船端から小便をした。そして星を見て進路を確認した。
肩からまっすぐに水中に走るロープは、燐光を放つ筋のように見える。
船の動く速度は落ちていた。今やハバナの灯りはさほど強くなく、海流が彼らを東のほうへ運んだのが分かった。
もしもハバナの光が見えなくなったら、さらに東のほうに曲がったということだ。もし魚が針路を変えなければ、まだしばらくは光が見えるはずだからな、そう彼は考えた。
大リーグの今日の試合はどうなったろう。ラジオで聴けたら最高なんだが。
しかし彼はすぐ思い直した。今はただ一つの事に集中しなければ。自分のやることだけを考えるんだ。下らないことをしてる場合じゃない。
そして声に出して言った。「あの子がいてくれたら。手助けを頼めるし、いい経験をさせてやれるのに」
年を取って独りでいるのは良くない。彼は思った。だがどうにもならない。
それより、悪くなる前にさっきのマグロを食べるのを忘れちゃいかん。まだまだ力が必要だからな。
食いたくなくても食うんだ、朝のうちに食うんだぞ。忘れるなよ、彼は自分に念を押した。
夜になると、二匹のネズミイルカが船のそばに現れた。体を回転させたり、息を吐き出したりする音が聞こえてくる。
彼は、オスが息を吐き出す音と、メスのため息のような呼吸とを、聞き分けることができた。
「イルカはいい」彼は言った。「遊んで、じゃれあって、愛し合う。俺たちの兄弟だ。トビウオと同じだな」
そして彼は、自分が引っ掛けた大きな魚に同情し始めた。
Copyright (C) Ernest Miller Hemingway, Kyo Ishinami