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The Old Man and the Sea 09 老人と海
Ernest Miller Hemingway アーネスト・ヘミングウェイ
AOZORA BUNKO 青空文庫
「よし」彼は言った。「よし」そして、船を揺らすことなくオールをおさめた。
右手を伸ばして、ロープを親指と人差し指の間に挟み、そっと押さえる。
引きも重みも感じられない。彼はロープをそのまま軽く握っていた。すると、また引きが来た。
今度は試すような引きで、強さも重みもない。彼は状況を正確に理解した。
一〇〇尋の深さで、カジキが餌を食べている。小さなマグロの頭から突き出た手製の鉤の、軸と先端を覆っているイワシをかじったのだ。
老人はロープを軽く押さえたまま、それを左手で枝からそっと外した。
これで、魚に全く抵抗を感じさせずに、指の間からロープを送り出すことができる。
この時季にこれだけ遠い沖にいるなら、大物に違いない。
最高に新鮮な餌だぞ。お前は六〇〇フィートもの深さの、暗くて冷たい水の中にいるんだろう。
かすかに、柔らかい引きを感じた。続いて、少し強い引き。イワシの頭が鉤からすんなり取れなかったのだろう。
「来い」老人は声に出して言った。「またひと回りして、匂いを嗅いでみろ。素晴らしいイワシだろう。たっぷり食ったら、次はマグロだ。
硬くて冷たくて、最高の味だ。さあ、遠慮するな。食うんだ」
彼は、親指と人差し指の間にロープを挟んで待ちながら、全てのロープに同時に気を配った。魚が水深を変えて泳いでいるかもしれないからだ。
「食いつくぞ」老人は言った。「どうか、食いついてくれ」
しかし食いつかなかった。魚は逃げ、手ごたえは無くなった。
「逃げるはずはない」彼は言った。「絶対にない。向きを変えて戻ってくる。
もしかしたら、前に引っ掛けられた経験があって、それを思い出しているのかもしれないな」
「ひと回りしていただけだ」彼は言った。「食いつくぞ」
弱い引きの感覚を喜んでいた老人は、ほどなくして、強く、信じがたいほどの重みを感じた。
魚の重みだ。彼はするするとロープを送り出す。巻いてあった控えのロープ二本のうち、一本分は既に出て行った。
ロープは老人の指の間を軽く滑り、親指にも人差し指にもほとんど力はかからなかったが、彼はまだ大きな重みを感じていた。
「なんて魚だ」老人は言った。「餌を横向きにくわえて、そのまま逃げようとしてる」
またひと回りして、きっと飲み込むだろう。彼はそう思ったが、口には出さなかった。いい話を口に出すと、えてして幻になってしまうものだ。
相手が巨大な魚であることは分かっている。マグロを横からくわえて、暗闇の中を逃げて行こうとする様子が目に浮かぶ。
その瞬間、魚の動きが止まった。だが重みは依然として残っていた。
ややあって、その重みが増し、老人はさらにロープを送り出した。
親指と人差し指にちょっと力を入れると、さらに重みが加わり、ロープはまっすぐ海の中に潜っていく。
「食いついたな」老人は言った。「しっかり食わせてやるとしよう」
指からロープを滑らせながら、彼は左手を伸ばした。控えのロープ二巻を、別の控えの二巻にしっかりと結ぶ。
準備は整った。これで、今持っているロープに加え、四〇尋の控えが三巻も用意できたのだ。
「もうちょっと食うんだ」老人は言った。「しっかり食らいつけ」
そうだ、鉤の尖端がお前の心臓に突き刺さって、お前を殺してしまうくらいにな。
気楽に上がって来いよ。そうしたら、銛を打ち込んでやるからな。さあ、いいぞ。準備はどうだ。もう十分食べただろう?
「そら!」彼は大声を出して、ロープを両手で思い切り引き、一ヤードほど手繰り寄せる。そして、腕に全力を込めながら体重を乗せ、両腕を交互に振るようにしてぐいぐいと引っぱる。
何も起こらなかった。魚はただゆっくりと遠ざかっていく。老人には、一インチたりとも引き上げることはできなかった。
老人はロープを背中に回して支えた。大物用の丈夫なロープがぴんと張り、水の粒が飛び散る。
やがて水中のロープから、じりじりと鈍い音がしてきた。彼はロープを握って船梁に寄りかかり、体を反らせて引きに抵抗した。
魚は弛みなく泳ぐ。穏やかな海を、船は魚とともにゆっくり移動していく。
Copyright (C) Ernest Miller Hemingway, Kyo Ishinami