HOMEAOZORA BUNKOThe Old Man and the Sea

ホーム青空文庫老人と海

※本文をクリック(タップ)するとその文章の音声を聴くことができます。
  右上スイッチを「連続」にすると、その部分から終わりまで続けて聴くことができます。
で日本語訳を表示します。
※ "PlayBackRate" で再生速度を調節できます。

The Old Man and the Sea 16 老人と海


Ernest Miller Hemingway アーネスト・ヘミングウェイ
AOZORA BUNKO 青空文庫
今は東風が抵抗となって、老人は静かな海を穏やかに進むのだった。背中にまわしたロープの痛みは、和らいで楽になってきた。
 午後に一度、ロープが再び上がってきた。
しかし、魚は少し浅いところを泳ぎ続けるだけで、浮上はしなかった。
日の光は老人の左腕と肩に、そして背中に当たった。
そのおかげで、魚が真北からやや東寄りに針路を変えたことが分かった。
 既に一度魚を見た彼には、その姿を思い描くことができた。魚は紫色の胸びれを翼のように広げ、まっすぐ立った大きな尾びれで闇を裂きながら泳いでいるだろう。
しかし、これだけ潜っていて、どれほど目が見えるのか。
奴の目は大きい。馬はもっと目が小さいが、暗い中で目が利くな。
昔は俺も、暗くてもずいぶんよく見えた。全くの暗闇じゃ駄目だが、猫と同じくらいには見えたものだ。
 日に当たり、指をずっと動かしていたので、左手の引きつりはすっかり良くなった。彼は負荷を左手に移し始め、背中の筋肉を縮めてロープの痛みを少しずらした。
「魚よ、お前が疲れていないというなら」彼は声に出して言った。「よほどおかしな奴にちがいない」
 彼はひどく疲れていた。じきに夜が来ることも分かっていた。別のことを考えようとして、
大リーグの試合のことを考えた。大リーグ、彼の言葉ではグラン・リガスだ。ニューヨーク・ヤンキースがデトロイト・ティグレスと対戦しているはずだった。
 試合の結果が分からなくなってから二日目だな。彼は思った。
だが俺は自信を持って、大ディマジオに負けないようにしなければ。大ディマジオは、かかとの骨棘が痛んでも、全て完璧にやれる男だ。
骨棘とは何のことだろう。彼は自問した。骨の棘か。俺たちには無い。
闘鶏につける蹴爪が、かかとに付いたような痛みだろうか。
それは耐えられないな。闘鶏は片目を潰されても、両目とも潰されても闘い続ける奴らだ。
立派な鳥や獣に比べれば、人間など大したものじゃない。
やっぱり俺は、海の暗闇の中に潜るあの獣になりたい。
「サメが来なければな」彼は声に出して言った。「もしもサメが来たら、奴も俺もお手上げだ」
 奴を相手に俺が粘るように、大ディマジオも魚と長く戦えるだろうか。彼は考えた。
きっとやるだろう。若いし力もあるから、俺以上かもしれない。親父は漁師だったしな。
だが、骨棘の痛みでひどく苦しむのだろうか。
「分からんな」彼は声に出して言った。「俺には骨棘は無い」
 日が暮れると彼は、自信をつけようとして、カサブランカの酒場での出来事を思い起こした。波止場で一番強い、シエンフエゴス出身の黒人の大男と腕相撲をしたのだった。
テーブルにチョークで引いた線の上に肘をつき、肘から先をまっすぐに立て、手を堅く握り合って、二人は一昼夜も睨み合った。
互いに、相手の手をテーブルに押し倒そうとしていた。
たくさんの金が賭けられていて、灯油ランプで照らされた部屋には人が出たり入ったりした。彼は黒人の手と顔を見つめた。
最初の八時間が過ぎた後、審判を四時間ごとに変えることになったので、審判たちは眠ることができた。
二人の指の爪からは血が滲んでいた。二人は互いの目を見つめ、互いの手と腕を見ていた。賭けている男たちが部屋を出入りし、壁際の高い椅子に座って見守った。
壁は明るい青に塗られた板張りだった。ランプが男達の影を壁に映していた。
黒人の影はひときわ大きい。かすかな風がランプを揺らすと、壁の影も揺れるのだった。
 一晩中、形勢は変わり続けた。観衆は黒人に、ラム酒を飲ませたり煙草の火をつけてやったりした。
黒人はラム酒を飲むたびに、とてつもない力を振り絞った。一度は、黒人が老人を――当時は老人ではなく王者サンチャゴだったのだが――、老人を三インチ近く押し、均衡を崩した。
が、老人は再び全く五分の状態まで押し戻した。
その時彼は、この立派な男を、強靭な肉体を持つ黒人を、打ち倒せると確信した。
夜明け頃、引き分けにすべきだと賭け手たちが言い出し、審判が首を横に振る中で、彼は、ありったけの力を込めて黒人の腕を傾けていき、テーブルにつくまで倒してしまった。
勝負は、日曜の朝に始まり、月曜の朝に終わった。
賭け手の多くが引き分けを要求したのは、これから波止場で砂糖袋を積み込むとか、ハバナ石炭会社で勤めるとかの仕事があったためだ。
それがなければ、最後まで続けることを誰もが望んだだろう。
ともかく彼は、誰も仕事に行かないうちに勝負を終わらせた。
 それから長い間、彼はチャンピオンと呼ばれた。春にはリターンマッチも行われた。
しかし賭け金は少なく、彼はその金をいとも簡単に手にした。シエンフエゴス出身の黒人は、前の試合で自信を打ち砕かれていたからだ。
その後、彼は何度か勝負をして、それきりやめてしまった。
本気になればどんな相手も打ち負かせると分かったし、漁に使う右手に腕相撲をさせるのは良くない。
何度か、試しに左手でやってみたこともあった。
しかし左手はいつも裏切り者で、言うことをきかない。それで彼は、左手を信用しなくなったのだった。
 
Copyright (C) Ernest Miller Hemingway, Kyo Ishinami
主な掲載作品
Sherlock Holmes Collection
The Adventure Of The Copper Beeches ぶな屋敷 NEW!!
The Adventure Of The Beryl Coronet 緑柱石の宝冠 NEW!!
The Adventure Of The Noble Bachelor 独身の貴族 NEW!
The Adventure Of The Engineer's Thumb 技師の親指 NEW!
The Boscombe Valley Mystery ボスコム渓谷の惨劇 NEW!
The Sign of the Four 四つの署名 NEW!
The Reigate Puzzle ライゲートの大地主
The Crooked Man 背中の曲がった男
The Adventure Of Charles Augustus Milverton チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン
Silver Blaze 白銀の失踪
The Adventure Of The Solitary Cyclist 孤独な自転車乗り
The Gloria Scott グロリア・スコット号
The Yellow Face 黄色い顔
The Resident Patient 入院患者
The Adventure Of The Sussex Vampire サセックスの吸血鬼
The Stock-Broker's Clerk 株式仲買人
The Adventure Of The Three Students 三人の学生
The Adventure Of The Norwood Builder ノーウッドの建築家
The Adventure of the Devil's Foot 悪魔の足
A Case Of Identity 花婿失踪事件
The Man With The Twisted Lip 唇のねじれた男
The Five Orange Pips オレンジの種五つ
A Study In Scarlet 緋色の研究
The Adventure Of The Empty House 空き家の冒険
The Adventure Of The Dying Detective 瀕死の探偵
The Adventure Of The Blue Carbuncle 青い紅玉
The Adventure Of The Dancing Men 踊る人形
The Adventure Of The Speckled Band まだらのひも
A Scandal In Bohemia ボヘミアの醜聞
The Red-Headed League 赤毛組合
QRコード
スマホでも同じレイアウトで読むことができます。
主な掲載作品
Sherlock Holmes Collection