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The Return of Sherlock Holmes シャーロック・ホームズの帰還

The Adventure Of The Empty House 空き家の冒険 2

Sir Arthur Conan Doyle アーサー・コナン・ドイル
AOZORA BUNKO 青空文庫
私は夕刻になってから、公園を逍遥しながら横切って、午後六時頃には、私はレーヌ公園の外れである、オックスフォード街に現われていた。
そこでは一群の弥次馬がペーブメントの上から一つの窓を見つめていたが、この人達は私が見に来た一軒の家を指さしてくれた。
一人の脊の高い痩せた色眼鏡の男が、――私はてっきり私服の刑事巡査に相違ないと思ったが、――いろいろと自分の観察を云っているのに、人々は群がり集って傾聴していた。
私も出来るだけその近くに進んでみたが、しかしその観察はどうも出鱈目であるので、私はちょっと嫌気がさしてまた引き返した。
と、――その途端に私は、私の後に立っていた畸形の老人に突き当って、その老人の持っていた本を五六冊、振り落させてしまった。
私はそれを拾い上げてやる時にちらりっと見ると、その中には、「樹木崇拝の起原」と云ったような名前の本もあったが、たぶんこの老人は、あるいは商売にしろ物好きにしろ、とにかく貧しい愛書家で、しかも珍本の蒐集家に相違ないと思った。
 私はこの粗忽を、大に陳謝したが、しかしこの珍本たるや、この所有主には、はなはだ貴重なものであったと見えて、
その老人は憤然として、自分に罵詈の言葉を投げかけて、踵を返して立ち去った。私はその彎曲した姿勢の、頬髭の白い姿が、群集の中から遠ざかってゆくのを見守った。
 レーヌ公園の第四百二十七番の事件については、私はひどく興味を持たされながら、結局観察の上では、依然としてほとんど何物も進め得なかった。
 邸宅は五尺起らずの塀で、道路から囲われていたから、
まあ庭園内に忍びこもうと思えば、それはごく容易なことであった。がしかし窓はひどく高いもので、極めて特殊の敏捷な者であったら、あるいはそれに伝って上ることも出来るかもしれないと思われる、水管と云ったようなものさえも無かった。
私はいよいよ考察に窮してケンシントンの方に足を向け直した。
そして私が書斎に入って、五分も経つか経たない中に、女中が面会人があると云って来たのであった。
 その来客と云うのは、誰あろう、――私も驚いたことには、私がまだ慇懃を通じない、先の珍本蒐集家で、鋭い凋んだ顔が、白髪の中から覗き出て、右腕には少なくとも一打はあろうと思われるほどの、貴重な書籍をかかえていた。
「いや、私に推参されて、吃驚なされたでしょう」 その老人は、全くききなれない嗄れた声で云って来た。
 私は、全くその通りと答えた。
「いや、全く御無理もありません。ところがこう見えても私にも、良心と云うものがあります。私はあなたがこのお家にお入りになるのを見たので、跛を引きながら、あなたの後を追っかけて伺った次第です。と云うのは、先きほどの御親切な紳士に親しくお目にかかって、さっきの私の態度に、もし乱暴すぎたと思召されたところがあるなら、それは決して何も悪意のあったわけではなかったことを申し上げて、またその上に、わざわざ本までも拾って下さった御親切に、お礼を申そうと思ってのことですよ」
「いや、それはあんまり御叮嚀すぎますな、
しかし失礼ですがあなたは、どうして私を御存じなのでした?」 私は訊ねた。
「御尤もです、いや、実はその、――私は、御宅の御近所の者です。あの教会の通りの角に、小さな本屋のあるのを御存じなされますか、――あれが私の貧弱な店ですが、どうぞお訊ね下されば光栄の至りです。
それでよく合点のゆかれたことと思いますが、
さて、ここに、「英国の禽鳥界」「カツラス」(訳者註、紀元直前頃のローマの大詩人)「宗教戦争」と云う本がございますが、これはいずれもなかなかの掘り出しものです。
あの本棚の第二段目の空所は、せいぜい五六冊もあれば、きちんと埋まりますが、いかがですか? 
あの空所は何ですか不体裁でございますよ」
 私はこう云われて、頭をめぐらして、後の本棚を見た。
そしてまた振り返ると、机の向うから、シャーロック・ホームズが、微笑しながらこっちを向いて立っている。
私はすっくと立ち上った。そして数秒間の間、私は、混乱するような驚愕と共に、彼を見つめた。そして私は見つめ見つめたがさて、私はたしかに後にも先にも生涯にただ一度の、気絶をしてしまったらしかった。
たしかに気絶をしたに相違なかった、――私の目の前には、明かに灰色の霧が渦巻いた。そしてその霧が晴れた時は、私のカラのボタンは外され、唇には、ブランデーの刺すような味感がのこっていた。
そしてホームズは、彼の水筒を持って、私の椅子の上から、蔽いかぶさるようにのしかかっていた。
「おい、ワトソン君!」 よく聞きおぼえのある声が響いた。「すまない、すまない。実にすまなかった。
僕はまさか、君はそんなにまで驚くとは思わなかったのだ」
 私はしっかりと彼の両腕をとった。
「ホームズ君!」 私は思わずも叫んだ。
「一たい本当に君なのかえ? 君が生きているなどと云うことは、有り得ることなのかえ? 
君はあんな恐ろしい深淵から、這い上ることが出来たのかえ?」
「まあ、待ちたまえ」 彼は言葉をさしはさんだ。
「一たい君は、物を云っても大丈夫かね? 
僕は全くつまらない、劇的な出現などをして、しっかり君を驚かしてしまったが、――」
「いや、もう大丈夫だ。しかし、しかしホームズ君、僕はどうしても自分の目を信ずることは出来ないよ。
おいこればかりは助けてくれよ。だって君、人もあろうに、シャーロック・ホームズが、僕の書斎に、現われるなどと云うことは、どうして信じられよう」
 こう云って私は再び、彼の袖の上から腕をつかんだ。つかんでみればたしかに、彼の筋張った痩せた腕が、袖の底に感じられた。
「いや、とにかく君は、幽霊ではないだろう。幽霊でないことだけはたしかなのだろう。
おい懐しい変り者め。僕は君に逢って、全く無精に嬉しい。
さあとにかくそこに腰を下したまえ。そしてどうして君が、あんな恐ろしい断崖から生きて還ったか、その顛末を話してくれたまえ」
 彼は私の向う側に腰を下した。そして例の人を食った冷やかな調子で、煙草に火をつけた。
彼は書籍商らしい見すぼらしいフロックコートを着ていたが、その他、真白な頭髪と云い、また机の上に置いた古書籍と云いたしかに書籍商を思わしめるものであった。
ホームズは以前よりももっと痩せて、かつ鋭く見えたが、その鷲のような顔には、たしかに死相を思わしめる蒼白さがあった。それで私は、彼は近頃は決して健康ではないのだと思った。
「ワトソン君、僕はぐーっと脊伸びをすることが出来て、こんな嬉しいことはないよ」 彼は語り出した。
「君、この脊の高い男が、何時間かの間を、一呎も身体を縮めていなければならないと云うことは、全く冗談ごとではないからね。
しかしわが親愛な相棒君、――この種々の話をする前に、もし君が協力してくれるなら、ここに一つの困難な、かなり危険な夜の仕事があるのだが、
いずれそれをすましてからの方が、君に一切の顛末を話すのに、好都合だと思われるんだがね」
「いやしかし僕は、好奇心で一ぱいなんだが、今すぐにききたいものだがね」
「じゃ君は今夜、僕と一緒に来てくれるかね?」
「ああ行くとも、――いつでもどこにでもゆくよ」
 
Copyright (C) Sir Arthur Conan Doyle, Otokichi Mikami
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