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The Memoirs of Sherlock Holmes シャーロック・ホームズの思い出

The Gloria Scott グロリア・スコット号 2

Sir Arthur Conan Doyle アーサー・コナン・ドイル
AOZORA BUNKO 青空文庫
 考えてみたまえ、ワトソン、友人と僕は思わず肝を冷やした。
だがその騒ぎもすぐに終わって、僕たちが彼の襟を外して指洗いの水で彼の顔をしめらせてやると、少しむせかえったが、やがて起きあがった。
『おお、まったく!』と彼は無理に笑うのだ。『もう心配ご無用。
こう見えてもどうも心臓は弱いところがあってな。停まるほどひどくはないんだ。
しかし種はさっぱりだが、ホームズくん、どうも、事実や考えを探り当てることなどは、君の手にかかれば児戯にも等しいようだな。
これが君の生きる道だ、な、世界中を見てきた男の言うことだ、やればよろしい。』
 かくして、父君が目の当たりにした手際をやたら評価して勧めるものだから、嘘だと思われるかもしれぬが、そのとき、まさにはじめて僕は、職業としてやれるのかもしれぬと思った。その瞬間まで趣味に過ぎなかったのにだ。
だが当座は家主の急病で気を取られていたから、それ以上のことは考えられなかった。
『僕の言ったことで、不快な思いをされてなければいいのですが。』と僕は言った。
『なに、確かにちょっとびっくりはしたが。
教えてもらってもいいかな、知り得た理由と知り得た程度を。』
と冗談交じりに言うのだが、彼の目のかげには恐怖の色が潜んでいた。
『それ自体は簡単です。』と僕。
『魚を小舟に引き上げようと腕をおまくりになったときに見たのです。肘のところのJ・Aという入れ墨を。
その字は今でも読めますが、不鮮明になっている点、その周辺の肌が汚れている点から、まったく明らかなのは、消す努力をなさったということです。
よって導かれるのは、この頭文字は、かつてはたいへん近しいものであったが、のち忘れようとしたものであるということです。』
『君は何という目を持っているんだ。』と彼はほっとしたような息をつく。
『君の言う通りだ。だが、この話はこれくらいにしよう。
亡霊のなかでも古い恋の亡霊ほどたちの悪いものはない。
玉突き部屋へ行って、静かに煙草を吸おうじゃないか。』
 その日から、父君の僕に対する態度は、親切でありながらもいつもどこか怖々こわごわという感じになった。
息子でさえそれを認めたほどだ。
『君のせいで親父は変わっちまった。』と彼は言う。『君の知る知らないで、戦々恐々だ。』
それ以上言わなかったが、確かに父君の心に響いたことが、行動ひとつとっても分かる。
もはや自分の存在が父君にとって不安になっていることを確信したので、僕はこの訪問に幕を引くことにした。
ところがまさに出発前日、ある出来事が起こったのだ。これがのちに重要になってくる。
 庭の芝生に出した椅子に腰掛け、僕たち三人は沈み行く太陽を眺めながら、広がる湖沼地帯の景色を楽しんでいた。と、そのとき、女中が来て、父君に会いたいという人が玄関に来ていると伝えた。
『して名前は?』とその家の主人が訪ねると、
『それが何とも。』
『なら何用かね。』
『そちらがご存じだから、ちょっとばかり話をさせろと仰せで。』
『こっちに通してくれ。』
まもなく現れたのは、よぼよぼの小男で、ぺこぺこしながら足を引きずってやってきた。
胸のあいた上着に、コールタールの染みだらけの袖、赤と黒の市松模様のシャツ、ダンガリーのズボン、ひどくすり切れた重いブーツといった格好だった。
痩せているが、赤くずるそうな顔が終始にたついていて、不揃いな黄色い歯を見せる。そして皺だらけの腕を船乗り独特のやり方で、半分だけ組んでいた。
その男が芝生を横切って、うつむき加減に来たとき、僕は父君の喉の奥から、しゃっくりを出したような音を耳にした。そして彼は椅子から飛び上がると、家のなかに走り込んだ。
すぐ引き返してはきたが、僕のそばを通るとき、強いブランデイの匂いがした。
『そこの君。』と父君は言う。『私に用かね。』
 船乗りは立ち止まると、じっと目を据え、だらしなく口を開いてにやにやする。
『俺がわからねえのか。』と男は言う。
『おお、なんだ。ハドソンじゃないか。』父君の声はうわずっていた。
『そうともハドソンさ。』と船乗り。
『もう三十年ぶり、もっとか。最後に会ったのは。
お前は自分の城を築いたが、こっちはまだ樽のなかから肉の塩漬けをつまんでるんよ。』
『いや、私だって昔のことを忘れはせんよ。』父君は大声で叫びながら船乗りの方へ近づいていって、何かを小さく囁いた。
『台所へ行けば。』とまた大声に戻って、『飲み食いできよう。
むろん職だって何とかしてやろう。』
『ありがてえなあ、旦那。』と船乗りは前髪を触る。
『人手不足の貨物船に二年ばかし乗って降りたばかりで、休みてえところだった。
ベドウズさんか旦那、どっちでもらおうかと思ってさ。』
『えっ!』と父君は声を上げる。『ベドウズの居所を知っているのか?』
『おやおや、旦那、古なじみの居場所なんてみな知ってるとも。』と、その男は皮肉な笑いを浮かべる。そして女中に連れられ台所の方へ足を引きずりながら歩いていった。
父君は僕たちに、金を掘る前はあの男と一緒に船乗りをしていたとか何とかつぶやいてから、僕たちを芝生に残して屋内に入ってしまった。
一時間あと、僕たちも家へ入っていくと、先ほどの男が酔っ払って食堂の長椅子に伸びていた。
全体としてかなり嫌な印象を残した出来事だった。その翌日、ダニソープを引き上げるにあたって未練はなかった。僕のいることが、友人の悩みの種になっているに違いないからだ。
 ここまでの出来事はみな、長い休暇のうちの、最初のひと月で起こったことだ。
僕はロンドンの自室に戻って、それから七週間ばかり、有機化学について若干の実験をしながら過ごした。
しかしある日、休みが終わろうというときのことだ。親友から電報を受け取った。戻ってくれ、相談したい、手伝ってくれ、そう書いてあったから、
無論、僕は一切を放擲して再び北に向けて出発した。
 
Copyright (C) Sir Arthur Conan Doyle, Otokichi Mikami, Yu Okubo
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