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The Memoirs of Sherlock Holmes シャーロック・ホームズの思い出

The Resident Patient 入院患者 4

Sir Arthur Conan Doyle アーサー・コナン・ドイル
AOZORA BUNKO 青空文庫
 ちょうど二三週間前のことでした。ブレシントン氏が突然に、私の所へやって参りましたが、彼は何だか、変にイライラしているらしいような様子でした。
そして彼はしきりに、西部地方で起きた盗難事件のことを話し、滑稽なほど昂奮して、どうしても私たちも二三日のうちに、窓や扉へ丈夫な閂をつけなくてはならないと主張するのでした。
そうして、それからと云うものは一週間の間、毎日休みなく窓から外をのぞいては見るのです。そして彼が昼飯をとる前には必ずその辺をブラブラして来る恒例の散歩もやめてしまって、その奇妙な昂奮状態にいるのでした。
――こうした彼の様子から、私は、彼が何かの恐迫観念に捕われているのに相違ない、と感づきました。しかし私が彼に、何かそのことについてきき出すと、彼は猛烈に反抗的になって来て、どうしても何か他の事に話をそらしてしまわないわけにはいかないのでした。
が、――有難いことに、そんな風にしてしばらく日を経ているうちに、次第に彼の恐迫観念は消えていって、また普通の彼にかえったのです。ところが、事実はそれはツカの間の喜びで、また新しい出来事が彼を再び気の毒な虚脱の状態にもどらしてしまったのでした。そうして現在彼はその状態にいるのです。
 一体、その彼を再びそんな状態に追い込んだ出来事と云うのは、どんな出来事なのか? 
と申しますと、二日前のことでした。今あなたに読んでおきかせしますが、
一通の、日附けもなければ、住所も書いてない手紙を受取ったのです。
――こちらはただいまイギリスに滞在中のロシヤの貴族ですが、――と、その手紙は書き出されていました。ペルシー・トレベリアン博士に御診察をぜひお願いしたいと思っております。
実はこちらの患者は数年来、顛癇の発作に悩まされているのでございます。幸いトレベリアン博士は顛癇病の大家であるとききましたので、
明日午後六時十五分頃にお伺い致したいと思います。御迷惑でも御在宅のほど御願い申上げます。
 この手紙は私に深い興味を起こさせました。なぜなら、この顛癇病の研究にとって、一番苦しいことは患者が非常に少いと云うことだったからです。
ですからその翌日、その手紙が指定して来た時間に、私はちゃんと診察室に坐って、その患者の来るのを待っていたことは申すまでもありません。
 その男は年をとった、痩せぎすな真面目そうな当り前な男で、どこにもロシアの貴族と云ったような感じは少しもありませんでした。
が、それよりももっと私を驚かしたのは、その患者の附添いの男でした。
それは背の高い若い男で、色の浅黒いしっかりした顔つきに、ヘラクレスのような丈夫そうな四肢と胸とを持っている、見るから堂々とした男でした、
彼は患者を肩に倚りかからせながら這入って来て、静かに椅子に腰かけさせました。彼の表情を見ていただけでは、彼のどこに、そんな風に患者をいたわるやさしさがあるのだろうと思えるほど、彼は堂々としていたのです。
「ごめん下さい、先生」 と、彼は流暢な英語で挨拶しました。
「これは私の父でございます。私にとってはこの父の健康は、何ものにもかえがたい大切なものなのです」
 私は彼のその子としての心痛にいたく心を動かされました。
「診察にお立ち合いになりますか?」 私は云いました。
「とんでもない」 彼は恐ろしそうな顔をして叫びました。
「とても私には苦しくって見てはいられないんです。
私は父親が、この病気の発作に襲われるのを見るたびに、まるで死んだような気がするのです。
私の神経組織は、お話にならないほど弱々しく敏感なんです。
――私はお許しをいただいて、診察が終るまで待合室で待っております」
 無論私は彼の申出に同意しました。そしてその若い男は診察室から出て行きました。
こんな風にして、いよいよ私は、患者と二人きりになり、その診察に移り、私はその様子を熱心にノートに記して行きました。
患者にあまり高い教養はないらしく、時々その答弁は曖昧に分かりにくくなりましたが、私はそれを彼が私たちの国の言葉にまだ不馴れだからだ、と云うような様子を装ってやりました。
けれどもそのうちに突然に、彼は私の問いに答えるのをやめましたので、私は驚いて彼を見ていますと、彼はやがて椅子から立ち上って、全く無表情な硬わばった顔をして、私をまじまじと見詰めるのでした。
――云わずと知れた、彼は例の神秘的な精神錯乱の発作に捕われたのです。
 実際の話、私がその患者を見て、まず一番最初に感じたのは同情とそれから恐れとでした。
が、その次に感じたのは、たしかに学問的な満足だったことを白状します。
――私はその患者の脈の状態や性質やを詳しく書きとめ、それから彼のからだの筋肉の剛直性をためしてみたり、またその感受性や反応の度合いをしらべてみたりしました。
 が、これらの諸点の診察では、私がかつて取扱った患者と、特別に違った所は何もありませんでした。
そこで私はこうした場合に、患者に亜硝酸アミルを吸入させて、よい結果を得ることを思い出しましたので、この時こそ、その効果をためしてみるのによい時だと考えつきました。
ところが、その瓶は折悪しく階下の実験室においてありましたので、私は患者を椅子に腰かけさせたまま残しておいて、それを取りに階下におりたのです。
そして、そうですね、せいぜい五分、――その瓶をさがすのに手間どれたのですが、すぐいそいで診察室に引返しました。
――ところがどうです、そのひまに患者は私の診察室からどこかへ出ていっちまって、室の中はからっぽなんじゃありませんか。まあ、その時の私の驚き方をご想像下さい。
 無論私は、第一番に待合室にとんでいってみましたよ。
するとどうです、その息子もやっぱりいないのです。
大広間のドアが閉められてはいましたが、鍵がかけてなかったのですね
――その患者たちを案内して来たボーイは、まだ来たばかりのボーイで、とにかく気がきかないのです。
で、彼はいつも階下に待っていて、私がベルを鳴らすと二階へとんで上って来て、患者を下へつれておりることになっていたのです。
――そのボーイも何も物音を聞かなかったと云うのです。こうしてこの日のこの事件は全くわけの分からないままにすんでしまったのでした。
――が、それからしばらくしてブレシントン氏がその習慣の散歩から帰ってきましたが、しかし私はその事件については何も話しをしませんでした。と云うのは、なるべく彼と、うるさい事件についてはかかり合わないような方針をとっていたからなのです。
 こんなわけで昨日は不思議な事件が起きたままで暮れてしまい、それから今日は、私はまた今日の仕事に追われて、ついそのロシア人親子のことを忘れておりました。ところがきょうの夕方のこと、ふと、私は診察室に這入って来る彼等親子を見てびっくりしたのです。しかも時間まで、昨日と同じ時刻だったではありませんか。
「どうも昨日は、突然にだまって帰ってしまって申わけございません」 と、その患者は云いわけを申しました。
「いいえ、どうしまして。けれどちょっと驚きましたよ」 私は答えました。
「いえ、実はそのこう云うわけなんでございますよ」 患者は話し出しました。「私はいつも例の発作が起きた後は、心に雲がかかったようになって、その前にあったことをすっかり忘れちまうのです。
だものですから昨日も発作からさめてみますと、見たことのない変な部屋におりますでしょう。で、これは怪しいぞと思いながら、立ち上って、ふらふらと表の通に出ていってしまったんでございます。ちょうど先生が部屋にお見えにならない最中に……」
「私はまた……」 と、彼の息子は話をつぐのでした。「見ていると親じが待合室の入口からフラフラと這入って来るんでしょう。ですから、これはてっきりもう診察が終っちまったことだろうと思いましてね、
――家へ帰って親じから事情をいろいろきいてみるまで、ちっとも気がつかずにいたんです」
「そうでしたか、そりゃどうも……」 私は笑いながら答えました。「いや、かまいませんよ、私のほうはちっとも迷惑しなかったんですから。――ただ、どうしたんだろうと思って、ひどくまごつきはしましたがね。――では、待合室でお持ち下さい。昨日の、診察のつづきをやってしまいましょう。もうじき、終りそうな所までいっていたんですから……」
 それから三十分ばかりの間、私はその老紳士と、彼の病気の徴候について話し合ったり、診察したりして、すっかり記録をとってから、やがて彼はその息子に手をとられながら帰って行きました。
 そこで私は、ちょうどその日もほどなく散歩から帰って来たブレシントン氏に、この患者の話をしてきかせました。
するとその話をきき終るか終らないかの時でした。ブレシントン氏はあわただしく二階にかけ上って行きましたが、やがてすぐとんで降りて来ると、いきなり私の診察室にとび込んで来たのです。その恰好は発作に襲われた狂人さながらなのでした。
 
Copyright (C) Sir Arthur Conan Doyle, Yu Okubo
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