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The Great Gatsby 華麗なるギャツビー
Chapter5-5
Francis Scott Fitzgerald F・スコット・フィッツジェラルド
AOZORA BUNKO 青空文庫
ぼくは部屋の中を歩き回っては薄暗がりの中のぼんやりとした物体の数々を調べはじめた。
ヨット用の服装をした中年男の大きな写真がぼくの心に引っかかった。その写真は机が寄せられている壁に掛かっていた。
「あれのことですか? あれはミスター・ダン・コーディーですよ、尊公」
「もう亡くなりました。何年か前までは、私の一番大切な友達でしたよ」
小箪笥《こだんす》の上に、同じくヨット用の服装に身を包んだギャツビーの小さな写真が置かれていた――頭を挑戦的に後ろに反らしたギャツビー――十八のころの写真だろう。
「いいなあ」とデイジーが叫んだ。「ポンパドール! こんなの持ってるって言ってなかったじゃない、ポンパドール――というかヨットを」
「これをご覧下さい」とギャツビーはあわてて言った。「切り抜きが沢山あるのですよ――あなたについての」
ぼくがルビーを見せて欲しいと頼もうとしたとき、電話が鳴り、ギャツビーは受話器を取った。
「そうです……いや、いまはお話しできませんね……いまはお話しできないのですよ、尊公……私は、ち・い・さ・な・町と申し上げました……小さな町といえばどこか、あの方には分かるはずです……ふむ、あの方が小さな町と言われてデトロイトを思い浮かべるようでは、我々としても始末に困ってしまいますね……」
「こっちきて、はやくはやくぅ!」とデイジーが窓の外を見つめながら叫んだ。
雨足は相変わらずだったけど、闇《やみ》には西のほうから切れ目が走り、もこもこ、ふわふわとうねる雲は、ピンク色と黄金色の大渦になって、海上の空に広がっていた。
「あれ見て」とデイジーは呟くように言い、しばらくしてから、「あのピンク色の雲をひとつ捕まえて、その中にあなたを押しこんで、あちこち連れまわしてみたいな」
ぼくは帰ろうとしたのだけど、二人はどうしても聞き入れなかった。ひょっとしたら、二人だけでいるよりも、ぼくが一緒にいたほうがいっそう満足できそうな気分だったのかもしれない。
「そうだ、こうしましょう」とギャツビー。「クリップスプリンガーのピアノをみんなで聞くのです」
ギャツビーは「ユーイング!」と呼びながら部屋を出ていった。それから間もなく、戸惑ったようすの、若干疲れが見える青年を伴ってもどってきた。鼈甲縁《べっこうぶち》の眼鏡をかけた、薄い金髪の男。
いまは、襟の開いた「スポーツシャツ」にスニーカー、ぼんやりした色合いのズボンというきちんとした服装になっている。
「運動のお邪魔ではなかったでしょうか?」とデイジーが礼儀正しく訊ねた。
「寝ていました」とクリップスプリンガーは、当惑をあらわに叫んだ。
「つまりですね、ぼくは眠っていたんです。それから起きて……」
「クリップスプリンガーはピアノを弾くのです」とギャツビーはクリップスプリンガーの言葉をさえぎった。
「うまく弾けませんよ。弾けません――ピアノ、ほとんど弾いてないんですから。まったくの練――」
「下に降りましょう」と言ってギャツビーはスイッチを入れた。
音楽室に入ったギャツビーは、ピアノの傍らのランプだけを灯した。
震える手につまんだマッチでデイジーの葉巻に火をつけ、二人一緒に部屋の離れた場所にあった寝椅子に腰を下ろした。そのあたりまでには光が届いておらず、ただ、床の反射光がホールから漏れこんできているばかりだった。
クリップスプリンガーは『愛の巣』を弾き終えると、椅子に座ったままふりかえり、辛そうなようすで、薄暗がりにギャツビーの姿を探しもとめた。
「まったく練習してないんですよ。弾けないって言ったでしょう。まったく練――」
「そうごちゃごちゃ言わないで下さいよ、尊公」とギャツビーは頭ごなしに言った。「弾くんです!」
'In the morning,
In the evening,
Ain't we got fun - '
外では風が音を立てて吹き荒れ、海峡沿岸にかすかな雷鳴《らいめい》が響きわたった。
ウェスト・エッグの各戸に明りが灯りはじめ、人間を運ぶ電車はニューヨークを発ち、雨中、家路を驀進《ばくしん》する。
人間が意味深い変化を遂げる刻限《こくげん》であり、あたりには興奮した雰囲気が作られつつあった。
'One thing's sure and nothing's surer
The rich get richer and the poor get - children.
In the meantime,
In between time - '
別れの挨拶をしようと近づいてみたぼくは、ギャツビーの顔に途方にくれたようすがもどってきているのに気づいた。まるで、今現在の幸福感の質にふとした疑問がわきあがったかのように。
五年近い歳月! あの午後ですら、デイジーがギャツビーの夢をうち欠いた瞬間が何度かあったに違いない――それはデイジーの過ちからではなく、ギャツビーの幻想《げんそう》がもつ桁外れのバイタリティのせいだ。
それはデイジーよりも先まで、なによりも先まで突っ走っていってしまう。
ギャツビーは我が身をクリエイティブな情熱をもってその幻想に投入し、日増しにその幻想に新たな要素を描き足しながら、思うまま、鮮やかな羽根すべてでもって飾りたてた。
いかに情熱を捧げたとしても、いかに溌剌《はつらつ》と向き合ったとしても、男が己の心に築き上げる幻に挑むことなど叶わないのだ。
そう思いながら見ているうちに、どうやらギャツビーは少し気をとりなおしたようだった。
手を伸ばしてデイジーの手を握り締める。デイジーがその耳に何事かを低くささやくと、かれは、思いのたけをぶつけるように、体ごとデイジーに向きなおった。
思うに、情熱的な暖かさを帯びて上に下に揺れるあの声は、なによりもギャツビーを捕らえていたはずだ。というのも、それは夢にすら見られないものだったから――あの声は滅びを知らぬ歌だった。
二人はぼくのことを忘れていた。デイジーは視線を上げ、手を差し伸べた。ギャツビーの目にぼくはまったく映っていなかった。
ぼくはもう一度二人を見つめた。人生のもりあがりに夢中になっていた二人はぼくをよそよそしく見つめかえした。
ぼくは部屋を出て、大理石のステップを雨の中に向かって降りていった。二人をそこに残したままで。
Copyright (C) Francis Scott Fitzgerald, Kareha