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A Dog of Flanders 2 フランダースの犬


Ouida ウィーダ
AOZORA BUNKO 青空文庫
生後十三か月も経たないうちに、パトラッシュは、北の果てから南の果てまで、青い海辺から緑の山の上まで行商することをなりわいとしていた、金物の行商人の持ち物になりました。
パトラッシュはまだ小さかったので、安い値段で売られました。
 この行商人は、大酒飲みで獣のような人間でした。
パトラッシュの生活は、地獄の生活でした。
まるで動物に対して地獄の拷問を行うことが、「地獄は本当にある」という自分の信仰を示す方法であるかのように思っている人々がいます。
パトラッシュの買い手は、陰気で、邪悪で、残忍なブラバント生まれの男で、荷車につぼ、なべ、びん、ばけつやいろいろな瀬戸物や金属類をいっぱいに積んで、パトラッシュひとりに力の限り荷物を引かせていました。その間、男はといえば、太った体でのんびりとパイプをふかしながらのろのろと荷車のそばを歩き、街道沿いにある酒屋や茶屋を通り過ぎるたびに、きまって腰をおろすのでした。
 幸か不幸か、パトラッシュはとても丈夫だったのです。パトラッシュは、鉄の種族の生まれでした。その種族は、情け容赦のない労苦に従事するために長年繁殖させられたものでした。そういう訳でパトラッシュはひどい重荷を負わされ、むちうたれ、飢えと渇きに苦しめられ、なぐられ、ののしられて、すっかり疲れ果ててしまっても、何とかみじめに生き長らえることができたのでした。こうした苦しみが、もっとも忍耐強く、よく働く四つ足の犠牲者に対して、フランダースの人間が与える唯一の報酬でした。
 この長くて死にそうな苦しみを味わって二年経ったある日のこと、パトラッシュはルーベンスの住んだアントワープに通じるまっすぐな、埃っぽい、不快な道をいつも通り進んでいました。
真夏で、とても暑い日でした。
荷車はとても重く、金物や瀬戸物の商品がうず高く積まれていました。
パトラッシュの持ち主は、ときどきパトラッシュの腰に鞭をピシッと打つ以外は、パトラッシュのことなど気にもとめずにぶらぶらと歩いていました。
このブラバント生まれの男は、道ばたで居酒屋をみつけるたびにビールを飲むために立ち寄りました。けれども、パトラッシュが運河で水を一口飲むために一瞬でも立ち止まることは、許さなかったのです。
パトラッシュは、こんな状態で、かんかん照りの中、焼けるような街道を歩いていきました。パトラッシュは二十四時間何も食べず、もっと悪いことには、十二時間近くも水も飲んでいなかったのでした。ほこりで目がくらみ、むち打たれた傷は痛み、情け容赦のない重荷に感覚がなくなり、パトラッシュはよろめいて口から少しあわをふいて倒れました。
 パトラッシュが倒れたのは、日差しの強烈なまぶしい光を浴びた、白い、埃っぽい道の真ん中でした。パトラッシュは病気で死にそうになり、動かなくなりました。
彼の主人は彼が持っていたただ一つの薬を与えました。それは、パトラッシュを蹴り、ののしり、そして、樫の木の棍棒でなぐることでした。これらは、これまでもしばしばパトラッシュに提供されるただ一つの食べ物であり、報酬でもあったのです。
しかし、パトラッシュはどんな拷問も悪態も、手の届かないところにいました。
夏の白いほこりの中で、パトラッシュはどう見ても、死んだように横たわっていました。
しばらくして、いくら肋骨をけとばしても、いくら耳元でどなりつけても役に立たないと分かり、このブラバンド生まれの男は、パトラッシュが死んでしまったか、死にかけていて、誰か死体の皮を剥いで手袋を作らない限りはもう役に立たない、と思いました。そこで、これが最後とばかりにはげしくののしり、引き具の皮ひもをとりはずし、パトラッシュの体を道路の脇の草むらまでけとばしました。それから激しく怒り、ぶつぶつと不平をこぼしながら、上り坂をのろのろと荷車を押していきました。このように死にかけた犬は置き去りにして、アリがかんだり、カラスがつついたりするのに任せておきました。
 翌日は、ルヴァンの町で祭りの市が立つ日でした。だから、ブラバンド生まれの男は、早く市が立つ場所に駆けつけて、金物の商品をつんだ自分の荷車に、いい場所を確保しようとやっきになっていました。
彼は激しく怒りました。というのは、パトラッシュは今までがん丈で辛抱強い動物だったのに、今度はルヴァンまでの遠い道のりを重い荷車を引いていくというきつい仕事を、自分でやらなくてはならなくなったからです。
けれども、パトラッシュの看病をするためにとどまることなど、思いもよらないことでした。獣は死にかけていて役に立ちませんでした。この行商人は、主人からはぐれた大きな犬を見つけたら、きっと盗んでパトラッシュの替わりにしたことでしょう。
 彼がパトラッシュに費やしたお金といえば、ほとんどないに等しいものでした。そして、二年もの長い、残酷な月日を、朝から晩まで、夏も冬も、天気のよい日も悪い日も、絶え間なく酷使し続けたのです。
 彼は、パトラッシュを利用するだけ利用しつくし、けっこうなお金をパトラッシュから得ていました。しかし、彼は人間らしくずる賢く、犬がみぞで最後の息を引き取るにまかせておきました。カラスがパトラッシュの血走った目をえぐりだすかもしれませんが、彼はルヴァンで物乞いをしたり、盗んだり、食べたり、飲んだり、踊ったり歌ったり、楽しむために、道を進んでいきました。
死にかけた犬、荷車引きの犬。なぜそんなものの苦しみに付き合って時間を無駄にし、小金を稼ぎそこなったり、笑うような楽しい思いをふいにしなければならない危険を冒さなければならないのでしょうか。
 パトラッシュは、道ばたの草むらが茂るみぞに投げ捨てられたまま、そこで横たわっていました。
その日は人通りが多い日でした。何百人もの人々が歩いたり、ラバに乗ったり、荷馬車や荷車に乗ったりしてルヴァンに向かって急ぎ足で陽気に通り過ぎていました。
何人かはパトラッシュをみました。ほとんどの人は、見向きさえしませんでした。皆、通り過ぎていきました。
死んだも同然の犬。それは、ベルギー人にとって価値はありませんでした。いや、世界中のどこだって、何の価値もなかったでしょう。
 
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