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The Old Man and the Sea 29 老人と海


Ernest Miller Hemingway アーネスト・ヘミングウェイ
AOZORA BUNKO 青空文庫
「じきに暗くなるだろう」彼は言った。「そうしたら、ハバナの灯りが見える。もし東に寄りすぎているとしても、別の浜の灯火が見えるはずだ」
 それほど遠くはない、と彼は思った。誰も心配していなければいいが。
もちろん、あの子だけは心配してるだろう。だが大丈夫、あいつは俺を信じてる。
年寄りの漁師たちは心配してるだろうな。それに、他の皆もだ。彼は思った。いい村だな。
 もう魚に話しかけることはできなかった。魚はひどい状態にされてしまったからだ。その時ふと、ある考えが浮かんだ。
「半分だ」彼は言った。「さっきまでは一匹だった。俺が遠出しすぎたのが悪かったんだな。自分のこともお前のことも駄目にしてしまった。
だが俺たちは、サメをたくさん殺したじゃないか。二人とも、他のもずいぶんやっつけた。お前さん、今までに何匹殺したんだ。
頭につけた槍は、伊達じゃあるまい」
 こいつが自由に泳ぎまわっていたら、サメとどう対峙するだろう。そう考えると楽しかった。
そうか、くちばしを切って、武器にすれば良かったな、と彼は思った。
だが手斧が無い。それどころか、ナイフも無い。
 もし持っていたら、くちばしをオールの端に縛り付けて、見事な武器ができる。
そうしたら、一緒に戦えるじゃないか。
おい、もしも、夜の間に奴らが来たらどうする。何ができるんだ?
「戦う」彼は言った。「死ぬまで戦うさ」
 だが辺りは暗く、どこにも光は見えない。風だけが吹き、船は着実に進んでいる。自分が既に死んでいるような気がした。
両手を合わせ、手のひらの感触を確かめる。
手は死んではいない。両手を開いたり閉じたりするだけで、生きている痛みを感じられる。
そして船尾の板に寄りかかると、自分が死んでいないとはっきり分かった。肩が彼にそう教えたのだ。
 魚を捕まえたらお祈りを唱えるという約束があったな、と彼は思った。だが今は疲れていて無理だ。
袋を取って、肩にかけておこう。
 彼は船尾に横になり、舵を取りながら、灯りが空に反射して見えて来るのを待った。
魚はまだ半分残ってる。彼はそう思った。きっと、半身を持って帰れるほどの運はあるだろう。それくらいの運はあるはずだ。
いや、と彼は言った。遠出をしすぎたせいで、運を駄目にしてしまったんじゃないか。
「馬鹿を言うな」彼は声に出して言った。「目を覚ませ、しっかり舵を取れ。これから運がつくということもある」
「どこかで売ってるなら、少し運を買いたいところだ」彼は言った。
 支払いはどうすればいいだろう、と彼は考えた。
銛を取られ、ナイフは折られ、両手はぼろぼろだ。これだけ出したんだから、買えるだろうか。
「買えるかもな」彼は言った。「そもそも八四日の不漁を引き受けた代わりに、運を買おうとしてたんだ。もう少しで売ってもらえそうだった」
 馬鹿なことを考えてる場合じゃない、と彼は思った。幸運というのは、色々な形で現れるものだ。何が幸運かなんて、分かるものじゃない。
ただ、どんな形にせよ多少は手に入れたい。代金は払おうじゃないか。
灯りが映る空が見たい、と彼は思った。
望みはたくさんあるが、今一番欲しいのはそれだ。
彼は舵を取りやすいように体勢を直す。体の痛みのおかげで、自分が死んでいないと分かった。
 空に反射する街の光が見えてきたのは、夜の十時頃のことだった。
最初はおぼろげで、月が出る前に空が明らんでいるだけのようだったが、やがて、強い風で荒れてきた海を越え、光ははっきりと見えてきた。
彼は光のほうへ舵を取って、考えた。もう少ししたら、メキシコ湾流の縁から出られるだろう。
 これで終わりだな、と彼は思った。サメはきっとまた来るだろうが、できることは何も無い。暗闇で、武器も無いんだ。
 体がぎしぎしと痛んだ。無理をさせた全身の筋肉や傷に、夜の冷え込みが沁みる。
もう戦わずに済ませたい。彼は思った。どうにか、もう戦わずに済ませたいものだ。
 しかし夜中になる前に、彼は戦った。今回は無駄な戦いだと分かっていた。
敵は群れをなして襲ってきた。いくつもの背びれが水中に描く軌跡と、魚に飛びかかる時の燐光だけが見える。
老人は敵の頭を次々に棍棒で打った。あごが魚を食いちぎる音や、下から襲ってくる魚に船が揺らされる音が聞こえる。
気配と音だけを頼りにして、彼は必死で棍棒を振った。何かに棍棒をつかまれた、と思うと、もう奪われていた。
 彼は舵棒を引っ張って舵から外し、両手で握って何度も振り下ろし、叩きに叩いた。
だが敵はもう舳先に集まり、次から次へと、時には何匹も同時に、魚に飛びかかり肉を引きちぎった。もう一度襲おうとサメが折り返すたびに、ちぎられた肉片が輝いて見えた。
 一匹が、とうとう、頭に食いついた。終わりだ、と理解しながらも、彼は舵棒をサメの頭に振り下ろした。サメの顎は、なかなか噛みちぎれない魚の頭から動けないでいた。
そこを彼は何度も何度も叩いた。
舵棒が折れる音が聞こえる。裂けた切れ端でサメを突く。
突き刺さる感触があったので先端が鋭いと分かり、もう一度突き刺す。サメは離れ、転がった。
そのサメが最後の一匹だった。もはや、餌は無くなったのだ。
 
Copyright (C) Ernest Miller Hemingway, Kyo Ishinami
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