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George Washington Carver(1) ジョージ・ワシントン・カーバー
George Washington Carver ジョージ・ワシントン・カーバー
AMERICAN MEN of SCIENCE and INVENTION
1921年の1月のある日、中年の黒人がワシントンD.C.の国会議事堂の一室にいた。
農産物の関税を決める重要な委員会で発言をするために、待っていたのである。
彼は、アラバマ州タスキーギの研究所から遠い道を、成長過程である自分たちの産業を輸入品との競争から守りたいと願うピーナッツ栽培者からの要請で、やってきたのだった。
彼らは、このやせて質素な服を着た黒人の支援を受けており、ジョージ・ワシントン・カーバー以上に、この作物について知っている者はいないだろうと確信していた。
彼は、この人々にピーナッツを、土を肥やす換金作物として紹介したのだった。
そのうえ彼は、この下等な植物から300以上の製品-ピーナッツ・ミルクやインスタント・コーヒーから、草、材木の着色剤までを作り出した。
何時問か待たせて、1人の委員が、ようやくカーバー博士に10分間だけの発言を許した。
委員会は、一日中、実情や数字を聞いて疲れているのだ、とその委員は言った。
カーバ-博士は委員会のメンバーに、彼の研究とピーナッツが、南部の経済にどれだけ大きな役割を果たし始めているかを素早く説明し始めた。
10分間たったころには、議員たちは、おおいに関心を示し、カーバーに続けるよう頼んだ。
会合が終わった時には、議員たちは立ち上がり、拍手を送った。これは、委員会での証人には、珍しい栄誉だった。
3か月後、『ピーナッツ・ワールド』誌は、カーバー博士の、希望の関税率を得るための努力に対して、1ページを割いて敬意を表した。
これは、奴隷の子から困難と差別を乗り越えて、世界で最も尊敬される植物学者、そして農化学者となった彼に寄せられた何百もの賛辞の一例である。
ジョージ・ワシントン・カーバーは、1864年、南北戦争が起こっているころ、ミズーリー州の農場で生まれた。
彼が生まれて6週間の時、彼とその農場の奴隷であった母は、夜襲をかけてきた者にさらわれた。
農場主のモーゼス・カーバーは、赤ん坊を取り返すことはできた。
赤ん坊の父親も、近くの農場の奴隷であったが、彼は、その前に事故で死んでいた。
幼いジョージは、カーバー家で育てられ、この孤児には、彼らの名が与えられた。
そして自由な時間を、彼は近くの森に作った秘密の菜園で過ごした。
ここで彼は花や野菜を作り、農業に寄せる関心を永続的なものにした。
そのうちに彼の栽培能力を認めて、隣人や友だちは、彼を「植物博士」と呼ぶようになった。
いつも好奇心に燃えているジョージは、絶えず質問をしていた。
だがじきに、カーバー家の人々は、このりこうな少年の質問に全部答えることができなくなった。
そこで、ジョージは15歳になると、カーバー家の許可を得て、教育を受けるために農場を離れた。
その後10年間、若きカーバーは、中西部の町から町へと移り、働きながら学校へ行った。
この間に、彼は、何人もの友だち、黒人も白人も、の家に泊まった。
彼らは、彼の才能を認めて、教育を受けることを勧めた。
彼らの援助を受けて、彼は1890年、アイオワ州インディアノーラのシンプソン大学に入学した。
学費をかせぐために、コック、皿洗い、洗たく屋、召し使いなどをして働いた。
シンプソン大学でカーバーは美術を学び、画家になりたいと考えていた。
しかし、しだいに自分が本当にやりたいのは、何かを育てることだと感じ始めた。
そのために、彼は1891年に、植物学部と農学部で高名なアイオワ州エイムスのアイオワ州立大学に入学した。
彼は、美術の勉強も続け、彼の絵の1つが、1893年のシカゴ世界博覧会で選外佳作に入った。
彼は1896年に、アイオワ州立大学を理学修士を得て卒業し、植物学部の助教師として任命された。
Reproduced by the courtesy of the Voice of America