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Robert Goddard ロバート・ゴダード


Robert Goddard  ロバート・ゴダード
AMERICAN MEN of SCIENCE and INVENTION
舞台は、1926年3月のある寒い午後、ニューイングランド地方、マサチューセッツの農場である。
近くのクラーク大学の物理学教授、ロバート・ゴダード博士がロケットの実験をしようとしている。
彼は、金属のパイプで発射台を組んだ。
その上には彼のロケット、10フィートの壊れやすそうなパイプの骨組に、エンジンと噴射口をつけたものがある。
彼はエンジンを始動させ、ロケットをはなし、素早く爆発から身を守るために金属の避難所に隠れる。
突然、立て続けに鋭い爆発音が幾度か聞こえ、次に低いとどろきがあり、数秒で急に止まる。
あとでゴダード博士は、日記に簡潔に記入する。「2時半にロケットを飛ばした。
41フィート上がり、184フィート飛んだ。時間は2秒半。
煙が出なかったこと、それほど大きな音がせず、炎が小さかったのは驚くべきことである。」
何が起こったのだろう。
あの小さなロケットは花火程度の音がしただけではないか。
何を意味しているのだろう。
ロバート・ゴダードと彼の助手の何人かしか、このロケットテストの重要さを知るものはいなかった。
しかし今日では、宇宙科学者、飛行技師、専門家は、ゴダードの1926年のロケット飛行を1903年のライト兄弟の最初の飛行機と同様に重要視している。
つまり、こういうことが起こったのだ。何年間も試験、失敗、また試験を繰り返した後、ロバート・ゴダードは、最初の液体燃料ロケットを飛ばしたのだった。
彼は何年も前から、ロケットに、地球の引力から逃れるだけの推力があれば、宇宙でのコントロールされた飛行も可能であると確信していた。
この推力を得るために、彼はロケット・エンジンと燃料の効率を高める努力を続けていた。
初の液体燃料ロケットの打ち上げに成功した彼は、未来の宇宙飛行へ大きく踏み出したと確信した。
彼は意気込んで、彼の研究にいくらかの資金援助をしてくれていたワシントンD.C.のスミスソニアン協会の会長にニュースを伝えた。
しかし、会長は彼のように喜ばなかった。
コダードは、以前ロケットが非常に高いところまで飛ぶと言った。
たったの41フィートでは、どうしたと言うのか。
正直に言って彼は失望した、と会長は手紙に書いてきた。
新聞もまた、ゴダードを励まさなかった。
彼らは、すでにゴダードのエンジンと噴射口のついた金属のパイプの風変わりな実験を「月ロケット」と呼んでばかにしていたのだ。
ある新聞は、冗談にゴダード教授を「月人」と呼んでいた。
ほとんどの人が、彼がロケットで「遊ぶ」のを見て大学教授にしては子どもっぽいことだと考えていた。
幸運なことに、ゴダードは、簡単には落胆しなかった。
穏やかな人であったが、何か問題に直面すると、とても断固とした態度をとった。
彼が新しいロケットを作っている時に、彼と話をした親しい友人は、後に語った。「ボブ・ゴダードは、私が知っている人の中で一番がんこである。
私が彼に月ロケットのことをたずねると、彼は言った。『私がやりたいのは、これを地面から上げることだけだ。』」
子どものころからゴダードは、高い高度に関心を持っていた。
いろいろな病気で、学校を休むことが多かった彼は、家でたくさんの本を読んだ。
数学、物理、化学の本のほかに、H・G・ウェルズの『宇宙戦争』、ジュール・ベルヌの『月世界旅行』などのSFを読んだ。
彼の日記や子どものころのノートを見ると、彼が宇宙旅行の考えに魅惑されていたことがわかる。
ゴダードが大人になると、彼は結核を患った。
病気は、何年も潜伏状態であったが、そのために彼は弱かった。
彼は、よく自分の体をあまり信頼できない機械にたとえた。
ある時、友人にこう書いた。「人生がこんなに短くて、こんなにもやることがあるというのは、ショックだ。
われわれは冒険をして、できる限りのことをやってみなければいけない。」
ロバート・ゴダードは、身体のことでも、仕事のことでも、資金のことでも冒険しすぎた。
彼は、病弱な身体の限度を越えて働いた。
彼は、世間の批判も、ほかの科学者の疑いの目も無視した。
彼は、それほどでもない大学の給料のほとんどを、スミスソニアン協会からのわずかばかりの援助金の足しにして、ロケット実験の資金にしたのである。
そして、百万長者のダニエルとハーリー・グーゲンハイムに、ゴダードが研究を広げるのに必要な資金援助を与えるよう説得したのは、有名なアメリカの飛行士、チャールズ・リンドバーグだった。
1929年、リンドバーグは、大西洋を越えたわずか2年後のことだが、ゴダードの実験を知った。
リンドバーグは、月人と呼ばれる男を訪問し、すぐにゴダードのロケット研究の重要性を確信した。
何年もあとの1959年に、リンドバーグはアメリカ最初の人工衛星が宇宙に打ち上げられるのを見て言った。「1929年に私は、ロバート・ゴダードの未来のロケット開発に関する考えを聞いた。
30年たって、巨大なロケットが、ケープ・カナベラルの空軍テスト基地で打ち上げられるのを見ると、彼が当時夢を見ているのか、それとも今私が夢を見ているのか、わからなくなる。」
やっと十分な資金援助を受けて、ゴダードは宇宙征服の夢を実現させようとした。
50歳に近かった彼は、南西部の乾燥して日がよくあたるニューメキシコ州のロズウェルの近くに引っ越した。
彼の作業場として、そしてロケット打ち上げタワーには理想的な場所だった。
また、彼の結核の病状を抑えるためにもよい気候だった。
そこで、10年間のすぼらしい仕事の間に、誘導できる安定したロケット飛行の実験を行った。
彼は初めてジャイロスコープを使い、ミサイルを誘導するためにロケット・エンジンの噴射に転向装置を初めて利用し、音よりも速いロケットを初めて打ち上げたのも彼だった。
1939年、ゴダードがロケット・エンジンを軽くしようと努力している時、第二次世界大戦が始まった。
1年後に、彼はニューメキシコの研究所を去り、東部へもどってアメリカの防衛軍に協力した。
彼は、戦術を助けるために、多くの進歩的な考えでもって貢献した。
この中には、やがて、対戦車兵器として使われるようになった、ロケット弾発射砲のバズーカの基本的アイディアが含まれていた。
しかし、ほかの考えの多くは丁重に断られてしまった。
落胆して、がっかりした彼はさらに、戦争の終わりごろにドイツ軍が使用したロケット爆弾が、皮肉にも彼の初期のロケット案や特許をもとにして作られたことを知った。
ゴダードの健康は、仕事と心労のために、再びしだいに悪化していった。
彼の持病の結核がまた現れ、そのほかにもっと恐ろしい敵、がんを患った。
1945年8月10日、ロバート・ゴダードは、のどのがんの手術を受けた後、死亡した。
もしゴダードがあと17年間生きていたら、彼の生涯の研究が成功するのを見ることができたのだ。
1962年2月には、アメリカ最初の地球を回る有人宇宙船が、フロリダ州のケープ・カナベラルから打ち上げられた。
その7年後、3人のアメリカ人が初めて月へ行った。
このような業績は、液体燃料ロケットの驚くべき力なしでは、不可能だったろう。
そしてこれらを、またすべての現代のロケットを可能にしたのは、ロバート・ゴダードの研究と特許だった。
今日、この偉大な宇宙開拓者であり科学者である人を記念した、メリーランドのゴダード宇宙飛行センターでは、彼がある時言ったことばが小さなサインに書かれている。「何が不可能かを決めるのは、むずかしい。なぜならきのうの夢は、きょうの希望であり、あしたの現実となるからである。」
 
Reproduced by the courtesy of the Voice of America
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