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Albert Einstein(1) アルバート・アインシュタイン


Albert Einstein アルバート・アインシュタイン
AMERICAN MEN of SCIENCE and INVENTION
ニュージャージー州のプリンストンは、世界的に有名な大学の所在地であるにもかかわらず、今日でも、木陰の多い小さな保守的な町である。
この町は、道路で奇妙な人に出会うようなところではないのだ。
そのため、ある婦人が1940年のある日、子どもだった彼女が、おかしな人が急に彼女に向かって歩いてくるのを見たことを決して忘れないのである。
「私は覚えています、」彼女は、今日子どもたちに語る。「その人の白い髪がどんなに乱れていたか。まるで感電したようでした。
彼は背が低かったのです。
そして、服はダブダブで、暖かくするために毛布をかぶるのと同じように、ただ体を覆うために着たように見えました。
彼の鼻は大きく、ブラシのような口ひげをはやしており、目は深くくぼんでいました。
彼は凝視したまま、考えごとをしていました。
私の近くに来ると、彼はふと私に気づいて、やさしくほほえみました。
でも、それから彼は歩き続け、考え続けていました。
私は、彼が寝室用のスリッパをはいているのに気がつきました。
くつをはくのを忘れたのです。
私は、きっと自分で彼を想像しただけだと思い、なぜか彼が私のおとぎ話の本から飛び出し、亡霊のようにニュージャージー州プリンストンの並木道で、私とすれちがっていったのだと思いました。
その晩、食事をしながら、私が家族に私が会った見たこともないおかしな人のことを話すと、父は、ナイフとフォークを置いて私を見ると、信じられないようなことを言いました。『このことを、よく覚えておくんだよ。
きょう、おまえは世界一偉大な人に会ったんだ。』」その人は、アルバート・アインシュタインだった。
彼がどのようにして、なぜニュージャージー州のプリンストンへ来たのかは、苦心と成功と悲しみの物語である。
1879年、ドイツのウルムで生まれたアインシュタインは、2歳の時、両親とともにミュンヘンへ引っ越し、そこで彼の父は、電気製品の商売を始めた。
一家はユダヤ人であったが、伝統的な宗教儀式や風習を守るということはなかった。
子どものころ、アインシュタインは話し始めるのが遅く、幼いころは、知恵遅れだと思われていた。
しかし、彼が14歳になったころは、この遅いスタートを取りもどし、自分で教科書を読んで、高等な徴積分学や幾何学を独学するほどになった。
そのころには、彼は将来、何になりたいかを決めていた。
彼は物理学者になり、理論科学に専心したかった。
しかし、アインシュタイン家では、若いアルバートが必要とした高等教育を与えるほどの余裕がなかった。
家業はうまくいかず、ミュンヘンを離れて、親類がいるイタリアのミラノへ行かなければならなくなった。
アルバートの家では、彼をスイスのアラウにある工業学校にやり、後には、チューリッヒにある国立工科大学へ送ることができた。
1901年、アインシュタインは22歳の時に教師になり、1902年にはベルンの特許事務所の試験官になった。
自分で費用が払えるようになると、彼はチューリッヒ大学で勉強を続け、1905年には、博士号を取った。
この時期に彼は、後に有名な相対性理論を生み出した研究を始めた。
一般の人に、なぜアインシュタインの理論が、ついには科学界、インテリ界を揺るがすことになったかを説明するのは、やさしくない。
ただ、このため、科学者は二度とこれまでのように世界を見れなくなったということなのである。
基本的に言えば、この理論は、まず宇宙で可能な一番速い速度とは光の速度であること、質量は速度とともに増すこと、空間を飛行している時計は、スピードが上がるにつれて進み具合が遅くなること、エネルギーと質量は同等であり、交換できることなどを提案していたのである。
この最後の主張は、E=mc2(エネルギー=質量×光速の2乗)という公式に基づき、これは後に、原子爆弾の原理となっている核分裂によって証明された。
後年、アインシュタインは相対性の法則を若い学生に説明してほしいと言われ、彼は言った。「もしきみたちがかわいい女の子と2時間座っていたとしても、1分に感じるだろう。
けれど、もし熱いストーブの上に1分間腰かければ、それが2時間ほどに感じるだろう。
それが相対性だ。」
1914年までに、アインシュタインは世界的名声を得た。
彼は、ベルリンのプロシア科学アカデミーで教授になってほしいという申し出を引き受けた。
彼は、いくらかの職務と教える時間のほかは、研究の機会が無制限にあった。
彼にとって理想的な地位であったが、じきに第一次世界大戦が始まり、この平和と静けさは破られた。
アインシュタインは、暴力を憎んでいた。
彼が直接戦争に関係していたわけではないが、戦争と戦禍が彼に大きな影響を与えた。
彼は研究への興味を失った。
彼が喜んで仕事にもどったのは、1918年に平和がようやくもどってからだった。
 
Reproduced by the courtesy of the Voice of America
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