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Ernest Hemingway アーネスト・ヘミングウェイ
Ernest Hemingway アーネスト・ヘミングウェイ
DISTINGUISHED AMERICAN SERIES
アーネスト・ヘミングウェイ:ノーベル受賞作家、彼は時代感覚をつかんでいた。
アメリカの詩人、アーチボールド・マクリーシュは、かつて次のように述べたことがあります。「ヘミングウェイは次のような理由で、私たちにとってたいへん重要な作家です。一つには、彼の作品が彼と同時代の人間の短所や長所並びに真の人間性というものを、美辞麗句を用いずに、忠実に反映したということ。もう一つは、彼の文体がきわめて迫力に富み鮮明さをもっていたために、彼の作品は、言語の障害と誤解を招きやすいあいまいさを突き破って、すべての人の心を打つことができたということです。」
取材記者、軍人、短編作家、小説家、劇作家、深海魚のつり師、大物狩りのハンターであったヘミングウェイは、身につけたユニークな文章の技法が同世代のすべての作家の文体に影響を与えた、といった男でした。
この影響はアメリカの国境を越え、英語ということばの領域を越えて広まっていきました。
アーネスト・ミラー・ヘミングウェイは、1899年7月21日、イリノイ州オークパークで開業していた小さな町医者の6人の子どもの一人として生まれました。
彼の両親は、彼が医者か音楽家になってくれることを望んでいましたが、彼は高校を卒業すると、カンサス市の『スター』のスポーツ記者として文筆の仕事を始めました。
第一次世界大戦が勃発すると、へミングウェイは記者の仕事をやめて陸軍に入隊しようとしました。
初めのうちは何度も断られ、ついにはイタリアの赤十字の救急車運転手として採用されましたが、彼はそこで19歳の誕生日の2週間前に重傷を負いました。
彼はミラノの病院を退院すると、イタリアの歩兵部隊-アルディティに入隊し、1918年11月11日の休戦まで兵役に服しました。
戦後ヘミングウェイはカナダのトロントへ移り住み、そこでトロントの『スター』に勤めました。
2年後、1921年に彼はパリの「インターナショナル・ニュース・サービス」で働くようになりました。
1921年から1927年の間、彼はヨーロッパに住んで、そこで彼の最初の3編の作品を書きました。すなわち、『3つの短編と10の詩(1923年)』と、短編集『われらの時代に(1925年)』と、あまり注目されなかった小説『春の奔流(1926年)』の3編です。
1926年、『日はまた昇る』が出版されると、ヘミングウェイは小説家として初めて大きな成功を勝ち得ました。
この小説は、多くの批評家から彼の最も優れた作品と評価されています。
戦争で負傷し性的に不能になったこの小説の主人公のジェイク・バーンズは、はなはだつらい境遇の下で、その後のヘミングウェイの多くの作品のテーマとなった問題に直面するのです。すなわち、人間はいかにして人間であることを立証するのか、というテーマです。
この小説は独特の文体で書かれているために、たちまちほかの作家たちに影響を与えました。
アメリカの小説家ジェームス・T・ファレルは、へミングウェイが「アメリカのことばを、繊細で複雑な感情を表現することのできる言語にするのに」貢献したことを認めています。
1927年に、ヘミングウェイは『女のいない男たち』という短編集を出版しました。
その翌年、彼はアメリカにもどり、フロリダ州のキーウェストに・・・時折、そこを離れたことはありますが・・・10年間住みました。
ここで、彼は自分の第一次世界大戦の経験を基にして、『武器よさらば』を執筆しました。
次の一節は、この小説の意味を理解するかぎとしてしばしば引用されるものです。「もしも、人々があまり多くの勇気をこの世界にもたらすようであれば、世界は彼らをばらすために殺さねばならない。だから容赦なく彼らを殺すのだ。
世界は各人をばらばらにし、やがてばらばらになった世界で多くの強者ができるだろう。
世界はたいへん善良な人々も、たいへん穏やかな人々も、たいへん勇敢な人々も、みんな同じように殺すのだ。
もし、あなたがこれらのうちのどれでもないとしても、世界はあなたをも殺すだろう。しかし、特に急いで殺そうとはしないだろうが。」
1932年、彼が短編小説においても、『日はまた昇る』においても、常に興味を示していた主題である闘牛の感動的な考察の『午後の死』を出版しました。
彼はこう書いています。「闘牛だけが、芸術家が死の危険にさらされ、業績の輝かしさが戦う人の名誉に帰すのである。」
へミングウェイは、フロリダの彼の家から数多くの旅行に出かけました。その中には、数回アフリカへ狩猟旅行に出かけたこともあります。
彼は、これらのアフリカ旅行の経験に基づいて、「幸福の追求」に関するノンフィクション・ブックである『アフリカの縁の丘(1935年)』と、彼の最も優れた2編の短編-『キリマンジャロの雪(1936年)』と『フランシス・マコンバーの短く幸せな生涯(1938年)』を書きました。
彼が最大の賛辞を受けたものの中には、ほかの作品よりも、むしろ短編小説が多かったのです。
1936年、スペインの内乱が始まったころ、ヘミングウェイは『スペインの大地』という映画の取材のため、スペインへ行きました。そして、その翌年、北アメリカ新聞同盟の取材記者として、またスペインに出かけました。
彼はスペインの内乱の経験を基にして『第5列(1938年)』と彼の最長編小説-『誰(た)がために鐘は鳴る(1940年)』を書きました。
このあとのほうの作品は、人間性の普遍性と、一つの場所で自由が失われることは、すべての場所において自由が失われることを意味する、という考えを強調しています。
この考え方は、主人公のロバート・ジョーダンが息を引き取る時に言った、次のことばによく表されています。「ぼくは、ここ1年間、自分が信じていたことを求めて戦ってきた。
もし、ここでわれわれが勝てば、われわれはすべての場所で勝つことになるんだ。
世界はすてきな場所だし、それを守るために戦うだけの価値のある場所だ。この世界を去らなくてはならないなんて、ぼくはなんといっても残念でしょうがない。……
ぼくがこの世で学んだことを、なんとか人に伝えるすべがあるといいんだが。
いや、まったく、ぼくは最後になって世界のことが十分飲み込めたんだ。」
批評家たちはこの小説を、「英雄的な勇気と哀れみ」の探求であると評しています。そして、この小説で、ヘミングウェイは彼の創作力の頂点を示した、という批評家もいます。
スペインの内乱のあと、ヘミングウェイはキューバに落ち着き、1959年のカストロ革命までその地に住んでいました。
彼は、この間フィンカ・ビギアという古くていくらか荒廃した屋敷に住んで、近くのサンフランシスコ・デ・パウラの漁夫たちの多くと語り合いました。
彼はここで彼が聞いた話の一つから、『老人と海(1952年)』という短編小説のアイディアを思いついたのです。
この小説は、あいつぐ不運の末、巨大なまかじきをつり上げる、年老いたキューバの漁夫の話です。
この老人の魚との戦い、最後の勝利・・・それは、サメが彼の獲物を襲って骨だけにしてしまったために、結局は敗北に終わるのですが・・・の物語は、次のことばで終っています。「人間は敗北しないのだ。
ヘミングウェイはこの小説によって、毎年優れたアメリカの小説に与えられるピュリツアー賞を勝ち得ました。
1954年、スウェーデンのアカデミーは、彼の近作『老人と海』で彼が示した、力強い独特のスタイルをもった、現代的な物語の技法に習熟しているという理由で、彼にノーベル文学賞を授与しました。
彼の受賞演説の一部は、彼の作品に対する態度を要約しています。「なぜならば、作家は自分ひとりで仕事と取り組むからです。そして、もし、彼が優れた作家である場合には、どの本も到達できない何物かを求めて、新たな試みを始めることになるのです。
彼は前人の成し遂げ得なかったこと、または、試みたが失敗したことを常に試みるべきです。」
ヘミングウェイは、1951年に、すでに胃病の治療を始めていたのですが、その後10年間、彼の健康は悪くなる一方でした。
1961年7月2日、アイダホ州のケチャムに近い自宅で、彼が自らの手による死を選んだことは、世間に大きなショックを与えました。
しかし、彼の病状が悪化していくのを見守っていた人々には、彼の自殺はうなずける行為だったのです。
文学史家のマックス・J・ハーツバーグは、ヘミングウェイを次のように評価しています。「……作家自身の生命や人格が世間の関心から遠のくにつれて・・・このことは、必然的に起こることであるが・・・それらとともに、作家の作品もうとんじられるようになるものかどうかということは、はなはだ疑わしい。
ヘミングウェイの作品は十中八九まで、彼の到達した技術的水準はきわめて高いので、彼の本のうち優れたものは、たとえそれがただ書かれた文体ゆえにということはあるにしても、後世に残るものだろう。
……彼の技巧や態度や、時代感覚と暴力に対する繊細な感覚・・・これが、彼の技巧の中にたいへんよく生かされているのであるが・・・これらが重なり合って、彼を現代における最も偉大な作家にしているのであって、彼の傑作はおそらく、アメリカ文学史の中でいつまでも高く評価されるだろう。」
Reproduced by the courtesy of the Voice of America