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F.Scott Fitzgerald F・スコット・フィッツジェラルド
F.Scott Fitzgerald F・スコット・フィッツジェラルド
DISTINGUISHED AMERICAN SERIES
F・スコット・フィッツジェラルド:ジャズ時代の代表作家。
「これからのアメリカは史上最大の好景気を迎え、それにまつわる話もたくさん出てくるという風だった。」
F・スコット・フィッツジェラルドは、作家として最初の成功を収めた年、1920年のふん囲気をこのように描いています。
彼は、人気作『楽園のこちら側』を発表するや、最初のデビューから、「ジャズ時代の代表作家」、1920年代の象徴、若者の代弁者として有名になりました。
フィッツジェラルドは長年、主として20年代の生活を軽い読み物風に雑誌にまとめていたことで知られていましたが、彼の後世に残る名声はその小説にあります。その特色は優雅で上品な文体、綿密な技法、アメリカ社会の鋭い道徳的分析にあります。
フィッツジェラルドはジャズ時代の原型であると同時に、冷静な観察者でもありました。
彼の立場は、新旧両世代、金持ちとそうでない階層、彼の少年時代の中西部の価値感と東部の華麗さ、の分岐点に立っていたため、「両方にまたがる視野」を持つことができました。それで、その時代を熱烈に生きると同時に、その時代の道徳を批判することができたのです。
フィッツジェラルドは文学作品の点でも、でたらめでいい加減な生活の点でも有名ですが、彼の認めていることによれば、本当の目的は「人々を楽しませることよりも、受け入れられる形で人々に説教をする」ことでした。
フランシス・スコット・キー・フイッツジェラルドは1896年9月24日、ミネソタ州セントポールで生まれました。
彼の家は普通いわれる中流階級に属していましたが、その作品を通じて彼はアメリカ中西部の中流階級の道徳律-正直、勇気、倹約、礼儀-を、東部の不労の富、スマートさ、皮肉なものの見方と対比させています。
フィッツジェラルドは金持ちの子弟に混ざりながら、常に疎外感を味わっていました。特に東部の予備学校時代とプリンストン大学時代がそうでした。
彼は、自分の社会的地位が不安定なものであることを鋭く感じていましたので、自分の長所・・・知性、美貌、魅力・・・を最大限に発揮し、自分の行動を綿密に計算して他人にもてるように仕向け、常に最高の印象を与えるようにしていました。
プリンストンでは、フットボールの花形選手になり、最高の社交クラブに入って、他人に認められたいと思っていました。
フットボールではうまくいきませんでしたが、社交界の夢は少なくとも部分的には、果たせそうに思われた時期がありました。
しかし、授業を怠けたために、あれほど成功に欠かせないと思っていた社交クラブに入ることができませんでした。
プリンストン時代にフィッツジェラルドが受けた最高の教育は、おそらく少数グループの仲間から受けたものでしょう。彼らは彼の文学的才能を認め、もっと本格的に文学を研究し、自分自身の作風をつくり上げるようにと励ましたのです。
1917年、フィッツジェラルドは挫折感からプリンストンを去り、軍隊に入りました。
アラバマ州の兵営にいた時、彼は暇な時間を創作に没頭して、プリンストンでの経験を基に、最初の小説の構想を練ったのです。
この時、彼は美しい快活な南部の娘ゼルダ・セイヤーに会い、求婚しています。彼女は後、彼の多くの小説の女主人公のモデルになっています。
ゼルダは、フィッツジェラルドが作家になる可能性はあるとは思っていましたが、彼が金持ちになる確証がなければ結婚できないと言いました。
1919年に除隊したフィッツジェラルドは、しばらく広告会社で働いたあと、小説を書き直すためにセントポールにもどりました。これは以前出版社に断られたものです。
この小説はフィッツジェラルドが23歳の時、1920年に出版されました。
これが文壇で成功したため、金持ちになる見込みが確実だと思われたので、ゼルダは彼との結婚を承諾しました。
小説『楽園のこちら側』はたちまち人気を博しました。
当時の批評家たちは・・・後の批評家もそうですが・・・この本の技法上の欠陥のいくつかに気づいていましたが、その力強さ、説得力のある会話の運び方、当時のアメリカの大学生の生態描写に感銘を受けました。
そこには若い世代の夢のなさと不遜さが描かれ、「フラッパー」(1920年代に人気のあった娘をさす俗語)の態度、行動が詳細にわたって述べられています。
作者が若いことは、作風の力強さ、小説の荒い構成、当時の大学で使われていた俗語の完全な使いぶりにはっきり現れていました。
その小説が変わっていたのは、冷静で批判的な調子です。
そこには、フィッツジェラルドの傑作のすべてに共通して見られる二重性が現れていました。つまり、彼は自分の書いた生活を熱烈に実践したと同時に、その欠点をきわめて道徳的な目で観察していたのです。
年若くして文筆により財を成したため、フィッツジェラルドは、あこがれていた「約束された人生に対する鋭敏な感受性」を満喫することができました。
しかし、同時に、金は感受性をみがくはずであるのに、損うのではないかとも思いました。
この対立は、フィッツジェラルドの多くの傑作の根底にありましたが、彼個人にとっても問題でした。
若いフィッツジェラルド夫妻は新しく手にした金を、はでなパーティーを何度も催して、湯水のように使いました。
彼らはこの生活態度をやめられない風でしたが、やがて娘フランシーズ・スコット・キー・フィッツジェラルドの出産のため、1921年にセントポールに移りました。
その地で彼らははるかに静かな生活を送り、フィッツジェラルドは数編の物語を書き、新しい小説『美しき人々と呪われた人々』を書き終えることができました。
この小説は1922年に出版され、技術的には処女作よりも優れていましたが、人物描写と話の運び方に難点がありました。
1924年、フィッツジェラルド一家はヨーロッパに移住し、そこで彼は、普通最高傑作とされている『偉大なるギャッツビー』を書きました。
話は、中西部出身の若者ニック・キャラウェイによって進められます。この人物は話の中にも登場しますが、客観的観察者の役割を果たしています。
ギャッツビーは以前は貧しい少年でしたが、不正な方法で金持ちになり、彼以上の金持ちと結婚した女性の愛を金の力で取りもどそうとします。
ギャッツビーは過去の夢を取りもどすことはできません。キャラウェイは、ギャッツビーの努力がむだとは知りつつも、その夢に対して、その夢に献身的なギャッツビーに敬意を表します。
彼は物語の終わり近くで、ギャッツビーに向かって大声でこう言います。「あいつらはひどいやつだ。
流麗なことばで書かれている結末部分で、キャラウェイは理想主義者の態度をこう表現しています。「その時それは、われわれの手を逃れていったが、かまいはしない・・・あしたはもっと速く走って、腕をもっと伸ばすんだ……
そしてある晴れた朝・・・」これがむだな追跡だと知ると、彼はこのようにことばを結んでいます。「だからわれわれは、ボートを絶えず過去に押しもどされながらも、流れに逆らって先へと進んでいくのだ。」
批評家の賛辞にもかかわらず、『偉大なるギャッツビー』の売れ行きはかんばしくなく、フィッツジェラルド一家はしばらくアメリカに滞在してから、ヨーロッパへともどりました。パリとリビエラに住んでいた時、フィッツジェラルドは「失われた時代」の最高のアメリカ作家たちと会いました。その中には、ヘミングウェイ、ドス・パソス、アーチボールド・マックリーシュが含まれています。
彼はヘミングウェイを崇拝し、彼の初期の作品の出版を手伝おうとしました。
彼らは長年友だちづき合いをしていましたが、ヘミングウェイが成功し、フィッツジェラルドの財産がなくなるにつれて、彼らの関係は疎遠になっていきました。
1930年、ゼルダは神経障害を患い、生涯完全には治りませんでした。
フィッツジェラルドは、幾分彼女の病気に責任を感じていました。
同時に、彼女の面倒を見なければならなかったために、創作に時間とエネルギーをかけるはずのものができなかったとも感じていました。
こういった気持ちは彼の第4作『優しい夜』に反映しています。これは、ある精神分析医が元の患者と結婚し、彼女の手助けをしたり、自分たちの友人を楽しませることに自分自身のエネルギーを費やすという話です。
この小説は1934年に出版されましたが、フィッツジェラルドが期待したほどの評判とはなりませんでした。挫折感に加えて、妻の病状、しだいにひどくなる彼のアルコール中毒問題、経済的な苦しさのため、彼は失意の時期を迎えています。
この時期の失望と不幸を、彼は随筆『疾患』の中で描いています。
1937年、フィッツジェラルドは経済的に苦しくなり、ハリウッドへ行って、映画の台本を書かなければなりませんでした。これは才能の浪費だと彼は考えていました。
この経験から、数編の短編と、映画プロデューサーについての未完の小説『最後の大君』が生まれています。
しかし、1940年、心臓発作で死んだため、この本は完成されませんでした。
1年後、完成された章に、あらすじと部分的に書かれた断片とを加えて、それは出版されています。
フィッツジェラルドの生存中、および死後数年間、彼の作家としての評判はかんばしくありませんでした。
何人かの批評家と仲間の作家は彼の才能を認め、これを高く評価しましたが、そのほかの人たちは彼を本格派の作家とは考えませんでした・・・一つの理由は、波瀾に満ちた生活のためであり、また彼の駄作のあるものは人物描写が感傷的で弱いためでもありました。
しかし、最近25年間、フィッツジェラルドの作品は以前より好意的に見られるようになり、彼の名声は確立しました。
彼の優れた文体、道徳感覚、話を進める才能のため、彼は「ジャズ時代の代表的作家」と見なされているだけでなく、ヘミングウェイ、フォークナーとともに最高の現代アメリカ作家と見なされているのです。
Reproduced by the courtesy of the Voice of America