※本文をクリック(タップ)するとその文章の音声を聴くことができます。
右上スイッチを「連続」にすると、その部分から終わりまで続けて聴くことができます。
※ "PlayBackRate" で再生速度を調節できます。
Louis Armstrong(1) ルイ・アームストロング
Louis Armstrong ルイ・アームストロング
DISTINGUISHED AMERICAN SERIES
アメリカの原型-ルイ(サッチモ)アームストロング:ジャズ大使。
13歳の少年が、シャツの中からけん銃を取り出しました。
彼とその仲間たちは相変わらず笑い興じ、歌を歌いながら歩いていきました。
やがて少年はけん銃の弾を詰めなおして、もう一度撃つ用意をしました。
彼の仲間たちは逃げましたので、少年は素早く振り返りました。
少年はその男に許しを請い求めましたが、むだでした。
少年は、その夜は拘置所で過ごす羽目となりましたが、年が明けると、少年孤児院に収容されました。
歳月が流れ、大人になったこの少年は、あの時の祭典のことを、生涯で最も大事な出来事の一つとして回想しました。
なぜならば、彼はこれがきっかけでトランペットを演奏することを覚えたからです。
この男というのは、アメリカのジャズ・ミュージシャンの中で巨人のような存在であるダニエル・ルイ・アームストロングなのです。
大抵の人には、ただの「サッチモ」で通っていたのですが、この名前はもとは彼が大きな口を開いて笑うので「サッチェル・マウス(かばんのように大きな口)」と呼ばれていたのを、イギリスのある新聞編集者が間違えて、彼のことをたまたまそう呼んだのが始まりだったのです。
しかし名前はどうであれ、彼はトランペットと、がらがら声と、欠かすことのなかった白いハンカチで、世界中の数知れない人々から親しまれていました。
ルイ・アームストロングは、1900年7月4日にニューオーリーンズで生まれました。
彼の父親はテレビン油をとる工場で働いていましたし、母親は召し使いをしていました。
ルイが5歳にならないうちに両親は別れてしまいましたので、もともと苦労の多かった彼の生活は、たちまちいっそう困難なものとなりました。
彼はニューオーリーンズの街で、流しのカルテットの一員として、わずかの金をもらって歌うこともしばしばありました。
彼は、しょっちゅう近くのカフェで演奏していたバンドの演奏に耳を傾けました。
ちょうどそのころ、1913年の大みそかがやってきたのです。
彼のミュージシャンとしての生活は、孤児院で始まりました。
孤児院で音楽の教師をしていたピーター・デービスは、ルイ少年に学校のバンドに入るようにと勧めました。
そして、ついにデービスは、コルネットをやってみるようにとルイに勧めました。
数週間とたたないうちに、この熱心な若いミュージシャンはブラス・バンドをリードしていました。
「こんなすぼらしいこたあなかったね。」アームストロングは後日言いました。
「ぼかあ孤児院で音楽と巡り会って、一心同体になったのさ。」
孤児院で1年がたちましたが、ルイは、まだプロとして楽器を吹くには若すぎました。
そこで彼は生計を立てるために、石炭を配達したり、使い走りをしたり、新聞を売ったりしました。
彼がジョー・オリバー夫人の使い走りをした代金として、彼女の主人のキング・オリバーが、ルイに音楽のレッスンをしてくれました。
オリバーは優れたジャズ・コルネット奏者であり、有名なクレオール・ジャズ・バンドのリーダーでもありました。
ところが、まもなくオリバーはシカゴへ引っ越しました。
ルイはニューオーリーンズに取り残されることになりました。
3年間、ルイはミシシッピーのリバー・ボートの船上で、フェート・マラブルのバンドに加わって演奏活動をしていました。
そこで、彼は詩を書き、音楽の世界のことをいろいろと勉強しました。
やがて、1922年に、オリバーからシカゴへ来て彼のバンドに加わるようにとの誘いを受けました。
多くの人々は、当時の2人の触れ合いを2年という短いものではあったが、アメリカのジャズの歴史のうえで一つの時期を画するものだ、と考えています。
1924年、ルイはニューヨーク市のローズランド・ボールルームのフレッチャー・ヘンダーソンのオーケストラに加わりました。
ここで彼は初めて、音楽学校で教育を受けたミュージシャンと交わりました。
ルイはヘンダーソンのオーケストラでトランペットの腕をみがき、偉大なブルース歌手のべッシー・スミスと、いくつかの古典となるレコーディングをしました。
彼はまたこの時期に、自分の声を使ってメロディーに乗せて歌詞のない歌を歌う「スキャット」唱法を編み出しました。
1925年、アームストロングはシカゴへもどって、彼の「ホット・ファイブ」や「ホット・セブン」のバンドと一連のジャズ・クラシックのレコーディングをしました。
彼はこれらのレコーディングによって、世界的な名声を博し、ジャズ界のリーダーとして揺るぎない地位を獲得しました。
サッチモのおかげで、ジャズのスタイルが変わりました。
彼の影響で、新たにリズムのうえの自由さが演奏者に与えられたばかりでなく、ジャズ演奏のアクセントは合奏から独奏者に移りました。
この影響は何年も続き、1950年代から1960年代初期のクール・ジャズにまで及びました。
Reproduced by the courtesy of the Voice of America