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Henry David Thoreau(2) ヘンリー・デービッド・ソロー
Henry David Thoreau ヘンリー・デービッド・ソロー
DISTINGUISHED AMERICAN SERIES
ソローが詩人であり哲学者であったラルフ・ウォールドー・エマソンと知り合ったのは20歳の時でした。
ソローはエマソンにおおいに敬服し、むしろ彼を崇拝したと言ってもいいでしょう。エマソンは14歳年上でしたが、たちまちソローに強くひかれました。
エマソンはソローの印象を、日記の中で次のように述べています。私は私の若い友人をおおいにうれしく思っている。彼は私が今までに会ったことのないような、自由でまっすぐな心を持った人物である。
わが親愛なるヘンリー・ソローは、彼がいなければもの寂しい午後の時間を、彼の純な心と明解な知覚力で明るくしてくれた。
この青年の言うことは、どれもこれも、すべて社会をからかうようなことばかりだったが、彼の真意はきわめてまじめなものだった。
ソローが24歳の時、エマソンは彼に自分の家へきて同居するようにと勧めましたので、この若い崇拝者は、エマソンの友人兼書生となりました。
彼は庭園の手入れをしたり、エマソンの家の屋根を修理したり、家にペンキを塗ったりしたばかりでなく、エマソンが寄稿していた雑誌の校正者の役も務めました。
小説家のナサニエル・ホーソンがエマソンを訪問した時、彼はソローに会いました。その時ホーソンはソローにおおいに敬服しましたが、そればかりでなく驚異の念に似たものを感じました。
ホーソンが手帳に書きとどめたこの青年の印象によって、私たちは25歳のころのソローの面影をしのぶことができます。
若いソロー氏は驚くべき人物である。彼は、自らの内に未開の原始的自然を持っている。……
彼は器量が悪く、鼻は高くて、口は奇妙な形をしており、礼儀正しくはあるが、無骨で素朴な感じを与えた。……
しかし、彼の不器量は誠実さと愛想のよさを感じさせるようなたぐいのもので、器量がいいことよりもずっと魅力的であった。
彼は鋭敏な自然の観察者だった。……だから、自然のほうでも、彼の愛情にこたえて、彼を特別の子どもとして受け入れ、ほかの人間にはめったに見られないような秘密を、彼には見せるのである。
野草や花は、それがどこに生えていようとも-庭園であろうが原生林であろうが-すべて彼の親しい友だちなのだ。
ソローは28歳の時、人間は機械によって組み立てられ、機械によって押し進められている文明に依存しなくても、やっていけるという信念を実験しました。
彼はコンコードを離れて、一人で生活するために森に入りました。
彼はウォールデンの池(町からそう遠くない小さな湖)の岸辺に小屋を立て、そこで2年間生活しました。
それはひと部屋しかない小屋で、彼が自分の手で建てたものでした。
この小屋を建てるのに必要だった材料は、ちょうど28ドル12セント半でした。
ソローはここで、彼が期待していたほどには、静かに住むことは許されませんでした。
彼は税金を払わなかったという理由で、逮捕されました。
彼は、税金がメキシコとの戦争に使われていると主張していたために納税を拒んでいましたし、いかなる殺人にも彼は反対していたのです。
彼は拘置所で一夜を明かしましたが、彼の意に反して、彼のおばの一人が彼に代わって税金を納めたために釈放されました。
彼は初めのうちは、このことにたいへん腹を立てていましたが、すぐに気を取りもどして森にある自分の小屋へ引き返しました。
彼は多くの人が熱望していたことをしたのです。つまり、彼は都市のあわただしさから逃れ、生きていくうえで絶対に必要な事柄について考えることのできるような環境の中で、一人でいたいという願望を実現させたのです。
ソローは目的を達成すると、森の中でただひとり2年の歳月を送ったあと、コンコードの自分の家へもどりました。
彼は定職を持たず、町の人々のために種々のこまごまとした仕事をして生計を得ていました。
彼は人々が自分のことを村のよろず屋と呼んでも、いっこうに気にしませんでした。
I have been --and still am --a schoolmaster, a private tutor, a gardener, a farmer, a painter --I mean a house --painter -- a carpenter, a mason, a day-laborer, a pencil-maker, a writer, and, sometimes, a poet." 私はかつて-そして今も-学校の教師であり、家庭教師であり、庭師であり、農夫であり、ペンキ屋-これは家のペンキ塗りのことだが-であり、大工であり、石工であり、日雇い労務者であり、鉛筆製造屋であり、作家であり、そして時には詩人でもあるのだ。」
ソローは32歳の時、自分が奴隷制度に反対する人たちの仲間であることを示す、大胆な評論を世に送りました。
この評論は狭量な権利侵害に抗議し、残酷な行為や戦争に強く反対を唱え、開放と行動の自由と完全な自由を支持して、力強く訴えました。
2年後、ソローは湖畔の小屋での孤独な生活について、記録していた思い出を1冊の本にまとめました。
彼はこの本を『ウォールデン-森の生活』と名づけました。
この書物は、出版当時はあまり人目をひきませんでしたが、やがては全世界に広まっていく運命にあったのです。
この書物ははるかアフリカやアジアの思想家たちの関心を呼ぶようになりました。
ロシアではトルストイがこの書物に賛辞を贈りましたし、この書物を読んで「市民の反抗」を計画したガンジーは、ソローの信条をインドにあてはめました。
ソローは生前かなり多くの詩を書いたのですが、活字になって人目に触れたのはたったの2冊だけです。しかも、これらの詩集はあまり成功とは言えないものでした。
完全な『全詩集』は、書かれてから1世紀後にやっと出版されたのです。
ソローは生涯、時折健康を害していましたが、40歳台になってまもなく、重病に見舞われました。
彼の姉がソローの手紙の代筆をし、彼の評諭集を出版するための準備をしました。
しかし、ソローはこれらの評論集が活字になる前に世を去りました。
彼は、1862年5月6日、結核で死んだのです。彼の45歳の誕生日の直前のことでした。
彼の葬式に参列したエマソンは徹頭徹尾一貫して個人の自由のために生涯をささげた若者のために賛辞を述べました。
彼自身は詩人であることを望んでいたでしょう。しかし、彼は、彼が書いた詩によってよりも、彼の考え方や生き方によって、多くの人々の記憶に残っているのです。
しかし、私は生涯を生きることと、これを口にすることの2つを同時にすることはできなかった。
Reproduced by the courtesy of the Voice of America