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Jack London ジャック・ロンドン
Jack London ジャック・ロンドン
DISTINGUISHED AMERICAN SERIES
ジャック・ロンドンの人生は、いろいろな点で、彼が書いた本よりも冒険に満ちています。
彼の本名はジョン・チェイニーといい、1876年1月12日に、カリフォルニア州サンフランシスコで生まれました。
彼はフローラ・ウェルマンとウィリアム・チェイニーの庶子で、父親は巡回作家、兼教師、兼星占い師でした。
2人は彼の誕生後まもなく別れ、数か月でフローラはジョン・ロンドンと結婚しました。彼の妻は死に、あとに2人の娘を残しました。
フローラ・ウェルマンの男の赤ん坊は、ジョン・グリフィス・ロンドンと名づけられました。
数年間というもの、さまざまの不幸が訪れ、ロンドン家は極貧の状態に陥り、サンフランシスコの郊外、オークランドのスラム街に移らなければなりませんでした。
少年は年若くして、家族の主たるかせぎ手となったのです。
ジャックは編集者あての手紙に、こう書いています。「学校で過ごした数年間を除けば(それとても、重労働をして金をかせぎました。)、私の人生は9歳の時から苦労の連続でした。
長々と、つまらない仕事を書きつらねてもなんにもなりません。いずれも職業と呼べる代物ではなく、すべて重労働でしたから。」
貧乏でうちひしがれた人々と身近に接したため、ジャック・ロンドンは、生涯を通じて社会主義に傾くと同時に、すべての貧乏人に対して強烈な同情を寄せるようになりました。
ロンドンの伝記研究家たちは、彼の複雑な個性、彼の人生における数多くのジレンマと問題は、少年時代の境遇に深く根ざしている、という点では一致しています。
しかし、彼が若い時には一つの大きな喜びがありました。それはオークランド公共図書館で、そこで彼はすべての本、特に歴史書と冒険物を読み、また旅行、航海に関するすべての古書を読んだのでした。
彼自身のことばによれば、「私は朝、昼、晩と本を読みました。
学校の行き帰りでも読み、ほかの生徒が遊んでいる休み時間にも読みました。」
しかし、お金にはいつも不自由していましたので、彼は骨の折れる仕事を次々とやりました。
14歳の時、彼は学校を離れ、15歳にして、近所のサンフランシスコ湾を手始めとして、海で自分の生計を立てようと思いました。
「私はサケの漁師であり、カキ取り人、帆船の船乗り、漁猟監視人、広い意味での湾の冒険者-年は若かったが、一人前の男でした。」
帆船ソフィーサザランド号に乗り込んで、日本の沖合までアザラシ狩りの遠洋航海に出かけた青年ジャック・ロンドンは、もちろん、その男らしさを発揮しました。
しかし、この遠洋航海のあとでも、彼はまだ冒険を求めていました。
彼は失業者の群れに加わってワシントンD.C.まで抗議デモをしたり、国中を歩き回って食べ物をもらったり、公園で寝たりしました。また、ニューヨーク州のナイヤガラの滝付近で、浮浪者として刑務所に収容されたりしました。
そうしたあげく、彼は家にもどり、作家になろうと決心し、学校にもどる必要があると思ったのです。
そこで数週間一生懸命に勉強し、カリフォルニア大学の入学試験にはゆうゆう通りましたが、大学に通ったのはわずか1学期間だけでした。
「私には普通のようにできないことがわかりました。」と彼は書いています。
「年もとってきましたし、財政のほうも許さなかったのです。」
1897年、ユーコン川で金を当てて一財産作ったという話に目がくらんだジャックは、アラスカとクロンダイク川流域へと遠征しました。
クロンダイク川で見つけた金で文学の仕事をし、また一部の金を使って、人類のために社会主義革命を推進しようと夢見たのです。
しかし、金は見つかりませんでした。が、その代わりに、アラスカで過ごした1年の間に、金以上の財産を手にしたのです。
彼には豊富な構想が蓄積され、それを基に彼の将来の名声が築かれることになったのです。
ロンドンは家に帰ると早速創作にとりかかりましたが、1年目はうまく行かないことの連続でした。
まず、たいへん権威のある雑誌が、彼の物語『北国のオディッセー』を掲載したのです。
その後すぐ引き続いて、ある大手出版社が短編集『狼の息子』の出版契約を結ぶことを申し出てきました。
ジャック・ロンドンの極北地帯の物語と言えば、一人の編集者はこう評しています。「彼は、寒さと暗黒と飢えの恐怖、厳しい自然環境下における人間の友情の喜びを、生き生きと描いています……
作者自身がその生活を経験していることが、読者に伝わってくるのです。」
20代前半で作家として有名になったジャック・ロンドンは、文壇と社交界で注目されるようになりました。
彼は過去に貧乏であったことを恥じることはなく、プライドを高く持ち、周囲の人々を刺激するタイプの人でした。
ロンドンの伝記作家の一人、リチャード・オコーナーはこう言っています。「普通は黒のタートルネックを着たジャックが部屋に入ってくるのを見ると……髪の毛は乱れ、いたずらか興奮に青い目を輝かせて入ってくると、あたかもたばこの煙とよどんだにおいの充満した部屋の窓を開け放すのに似ていました。」
1900年、ジャック・ロンドンは最初の小説を出版し、べス・マダーンと結婚しました。
以後の3年間で彼はさらに6冊の本を書き、今まで想像した以上の金をため、彼自身の家族と母親のためにりっぱな家を持つことができました。
また彼は、ボヘミアン的な作家、画家のグループに入って、勝手気ままで酒びたりの生活を送り、全くのんびりしていると思われるような毎日を過ごしていました。
彼は強い罪の意識を感じていたのです。なぜなら、彼は非常な成功を収めたのに、世界中の多くの人たちは貧乏で、しいたげられていたからです。
彼はイギリスへ行き、ロンドンのスラム街で6週間生活しました。
その結果は、『奈落(ならく)の人々』という本となりましたが、これは小説というよりは社会学的研究に近かったのです。
イギリスから帰国したロンドンは、生活も落ち着き、自信もつき、酒の量も少なくなり、海の大悲劇『海賊』の創作にとりかかりました。
彼は、飼い犬が突然北極の荒地に放り出されて、生きるための闘争をする、という短編になるはずのものも書き始めました。
この物語は作者の意図どおりとはならず、『荒野の叫び』という小説になりました。
リチャード・オコーナーの伝記記事には、こう書いてあります。「批評家の中には、『荒野の叫び』はキップリングの傑作に匹敵するものとして、当時最大の称賛を送った者もいます。
またほかの批評家は、それを「アメリカの古典」と呼びました……
ジャックは、ついにアメリカの読者からの大反響を呼び起こすことに成功したのです。
この本は世界中のあらゆる言語に翻訳され、その作者は世界中で有名になりました。」
ジャック・ロンドンが文学上最大の成功を収めたその年、彼の生活は世間のスキャンダルとなりました。
彼は妻と娘たちを捨て、ほかの女のもとへ走ったのです。
彼女の名前はチャーミアン・キトリッジといい、生気にあふれ、魅力的で、人の心をひくほどロマンチックで、想像性に満ちた女性でした。
彼女がロンドンの心を特にとらえたのは、彼女が戸外を好み、乗馬に非常に優れていたためです。
ベスと離婚してから、ジャックはチャーミアンと結婚しましたが、2度目の結婚は彼が期待したほど幸福ではありませんでした。
チャーミアンは、彼が希望したほど愛らしくもなく、彼に理解も示しませんでした。
彼女は彼女で、彼が気むずかしく、うるさい男であることを知りました。
彼は酒をひどく飲むようになり、彼女には悲劇的な結果になることがわかったのです。
ロンドンは心の満足を常に求めていましたので、田舎に引っ込み、彼が「月の谷」と名づけた大きな農場を買い、豪壮な邸宅を建てましたが、これは彼が引っ越してくる前に火事で焼けてしまいました。
そこで彼は船を造り、彼とチャーミアンは南太平洋をこれで航海しました。
彼は依然落ち着かず、幸せを求めながら、荒々しい旅を続け、気分転換として、メキシコ革命を取材するニュース特派員の職につきました。
彼は短編と小説を数多く書き、それによって金がどんどん入ってきました。
その金は、彼自身のぜいたくな生活を続けるため、また母親、最初の妻、2人の娘の生活のために必要なものでした。
逆説的にも、彼の社会主義者の仲間たちは彼を見捨てたにもかかわらず、ジャック・ロンドンは、生涯を通じて、金持ち階級、冷酷非能率の工場、未成年者の労働、腐敗した政府行政に激しく反対しました。
彼は生存中、正義と同情と奉仕と公正を強く求めたのです。
1916年までの問に、彼は健康をそこない、50冊の本を出版しましたが・・・最後の3冊はあまり売れませんでした・・・ロンドンは、世間に彼の文学が訴えなくなったことを知りました。
そして彼が強く求めていたロマンチックな愛も、全くの夢物語であったのであろうと思いました。
1916年11月21日の夜、ジャック・ロンドンは、病気の痛みを取るために医者からもらった薬を多量に飲んで、その命を絶ちました。
ジャック・ロンドン自身の生涯の物語は、リチャード・オコーナーのことばによれば、「彼が書いたどの作品よりも優れている」のです。
Reproduced by the courtesy of the Voice of America