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Stephen Crane スティーブン・クレイン


Stephen Crane スティーブン・クレイン
DISTINGUISHED AMERICAN SERIES
アメリカ現代小説の父-スティーブン・クレイン:アメリカの短編小説作家。
スティーブン・クレインは、おそらくは、彼の南北戦争を描いた小説-『赤色武功章』によって、一番よく知られているでしょう。それは、1人の未熟な兵士の戦争の恐怖に対する反応を書いたものです。
しかし、彼は主として短編を書いた作家です。その中で最も注目に値するのは、『青いホテル』『イエロースカイに花嫁来たる』『無蓋(むがい)ボート』などです。
クレインは、19世紀末に30年の生涯を送りましたが、当時のほかの多くの芸術家と同様、伝統的でロマン主義的なテーマに反発し、自分が身の回りで見たものをきわめて写実的な表現を用いて書いたのです。それは穏やかでユーモラスな表現であると同時に、冷酷で激しい表現でもありました。
アメリカの優れた文学史家の一人であるロバート・E・スピラーは、現代アメリカ文学の誕生は、スティーブン・クレインの作品に始まると考えます。
彼の作品の量はあまりにも少ないので、彼を第一級の作家と認めることにはむりがありますが、19世紀のアメリカの小説界の重要な人物の一人であることは確かです。
クレインは1871年11月1日、14人兄弟の末っ子として、またメソジストの牧師の息子として、ニュージャージー州のニューワークで生まれました。
彼の子ども時代は楽しいものでした。
学校では、学業よりも野球のほうが好きでしたので、一時はプロ野球の選手になろうかと考えたほどでした。
しかし、彼の生来の好みは文筆業でしたので、彼は大学に2年間学んだ後、ニューヨークへ行って作品を書きました。
彼はニューヨークでは病気がちで、作品も成功せず、つらい思いに耐えながら5年間の苦しい生活を送りました。
クレインは、ニューヨークで新聞の取材記者として、わずかばかりの収入を得ましたが、この当時の彼本来の創作は、最初の小説『街の娘マギー』でした。
ほかの作家たちが自分の見たことを感傷的、教訓的に表現したのに対して、クレインは都市生活の惨めさや貧しさを克明に書いたのです。
彼は自費出版で『マギー』を出したのですが、あまり売れませんでした。
当時は、この小説はあまりにも写実的で、人に不快の念を起こさせる作品であると考えられましたので、出版者はこの本に名前を連ねることを拒んだのです。
一方、クレインは飢餓線上で度重なる病と戦いながら、創作活動を続けました。
彼は1893年に『赤色武功賞』を書き上げました。
その時彼はまだ22歳の若さでした。
この小説は2年後に出版され、たちまちベストセラーになりました。
クレインは一躍有名な若者になったのです。
彼は不幸にして、この本からは100ドルしか収入を得ることができませんでした。
ところが、軍隊小説で名声を勝ち得たクレインは、その後は従軍記者として生涯を過ごすことになったのです。
彼は、出来事を実際に経験した者だけがその事件の解説をすることができるのだ、といった誤った考えから経験を捜し求めることに精力を費やしました。
彼は、できるだけ生活に密着する方法を選んだのです。
彼はアメリカ西部を旅行しました。米西戦争やギリシアとトルコの戦争に、従軍記者として活躍しました。
しかしクレインにとっては、彼が自分の目で見た事件や土地よりも、人間、すなわち、彼らが置かれた境遇にどう反応するか、ということにより多くの関心があったのです。

ある時などは、『あらしの中の男たち』を書くために、真の経験を得ようとして、彼は猛吹雪の中に一晩中立っていたことがあります。
彼は、西部の大草原を旅行した時の経験に基づいて、『青いホテル』と『イエロースカイに花嫁来たる』を書きました。
この2編には、アメリカ西部の「ワイルドな」地方にまだ残っていた古風な生活が紹介されています。そしてこれら2編はいずれも、クレインの独特の文体である皮肉な響きをもって完結しています。
1896年、クレインはさらに多くの経験を求めてフロリダへ行き、キューバの反乱者たちに銃を運ぶ小さな汽船に乗りました。
この船は航海が始まるとまもなく沈没し、クレインと一群の人たちは、ライフボートに乗ってあらしの海を50時間も翻弄されました。
この経験を基にして、クレインは『無蓋ボート』という小説を書きましたが、彼の批評家の中には、この小説は、この種の小説では最高のできであると評する人もいます。
この小説ほどクレインが恐怖というものをはっきりと自覚し、あるいは、この小説ほど印象的に恐怖を表現した小説はないのです。
危機の瞬間に人生の意味を書き記すことを好むのは、彼の作品の特徴です。
彼は、現実とイマジネーションとの間に微妙なバランスを保ちながら、彼の優れた芸術を作り上げていったのです。
難波のあとフロリダに帰ったクレインは、少し前に知り合っていたコーラ・テイラーから温かく迎えられました。
ボストン生まれの、二流画家の娘だった彼女は、クレインより5歳年上で、それまでに2回結婚した経験を持っていました。
彼女は彼にほれこみ、彼は彼女の生活の中心を占めることになりました。
2人は連れ立ってギリシアへ赴き、そこでクレインはイギリスとアメリカの雑誌社の依頼で、ギリシアとトルコの戦争について報道記事を書きました。
しかし、彼は難波の時の体験から健康を害し、結核にかかりました。
クレインは病状が悪化してギリシアにいられなくなると、コーラとともにイングランドに渡りました。
しかし、1898年米西戦争が始まると、クレインはまたもや新しい経験を得たいと熱望しました。
ニューヨークの新聞の高給特派員として、キューバへ行く仕事を受けました。
健康のすぐれない体であったにもかかわらず、彼は疲れを知らない従軍記者でした。
彼は、兵士たちと彼らの戦場における反応といったものほど、軍隊の戦略行動についてはあまり書きませんでした。
ニューヨークにもどってから、クレインとコーラは再びイングランドへ隠居しました。
彼はここで、日一日と弱っていく力をふりしぼって創作を続けました。
しかし結核は進行しました。
回復の見込みもないまま、彼とコーラはドイツの保養地に向かいましたが、そのころはもう手遅れでした。
スティーブン・クレインは、1900年6月5日に、その地で世を去ったのです。
彼は、まだ29歳にもなっていませんでした。
クレインの作家としての生涯は十分な成熟を見ずして終わってしまいましたが、その短い年月にしては多作であった彼の作品は、アメリカの文学に深い影響を与えました。
彼の作品は、言うまでもなくすべてが優れていると考えられているわけではありません。
しかし、クレインの人生についての生き生きとした印象、鋭い洞察力、多彩で力強い洗練された彼独特の文体などは、後世の作家に一つの手本を与えました。
彼は写実的な小説や短編に独特の型を打ち立てましたが、これは後に、アーネスト・ヘミングウェイ、ウィリアム・フォークナー、ジョン・スタインベック、そのほか大勢の作家たちによって踏襲されました。
 
Reproduced by the courtesy of the Voice of America
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