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The Adventures of Sherlock Holmes シャーロック・ホームズの冒険
A Scandal in Bohemia ボヘミアの醜聞 8
Sir Arthur Conan Doyle アーサー・コナン・ドイル
AOZORA BUNKO 青空文庫
六時を十五分過ぎた頃、我々はベイカー街を出発した。予定の時刻より十分早く、サーペンタイン並木道に到着した。
辺りはすでに薄暗がりで、屋敷の持ち主が帰宅するのを待って、ブライオニ荘の前をふらついていると、丁度ガス灯がついた。
屋敷はシャーロック・ホームズの簡にして要を得た説明通りの建物であったが、辺りは思ったよりも静閑としていなかった。
通りは静かというよりも、かえってにわかに活気づいていたほどだ。
みすぼらしい身なりの一団が、街角で煙草を吹かしながら笑っていたり、刃物研ぎ屋が路上研磨をしていたり、二人の近衛兵が子守の女性と歓談していたり、めかし込んだ青年が幾人か、口に葉巻をくわえてうろついていたりしていた。
屋敷の前を行きつ戻りつしているとき、ホームズが切り出した。「いいかい、この結婚が事を簡単にした。
女もゴドフリィ・ノートンに見られたくないはずだ。我らの依頼人が姫君の目に触れさせたくないのと同じように。
ここで疑問が生じる。僕らの捜す写真はどこにある?」
キャビネ判だ。大きすぎて、女性の召し物に隠すのは容易ではない。
王が待ち伏せして持ち物をさぐる可能性があることは、重々承知だろう。
従って、持ち歩いているという線はないと見て良い。」
自分でしまい込む分には安心できるが、事務的に扱う人間に渡しては、裏から力がかかったり、あるいは政治圧力がかかったりするやもしれん。
そのとき、並木道の角から馬車の側灯の光が弧を描くように射してきた。
ブライオニ荘の玄関へ向かうのは、例の小型のランドーだった。
止まると、角にいた一人の浮浪者が小銭目当てで扉を開けようと飛び込んできたが、同じ目的で突っ込んできた別の浮浪者に肱で追いやられてしまった。
取っ組み合いの喧嘩が始まってしまい、二人の近衛兵が一方に加勢、刃物研ぎ屋がもう一方に加勢したので、騒ぎはあっという間に大きくなった。
拳骨がぶつかり合い、馬車から降りた婦人はたちまち、拳や杖の飛び交う喧噪の渦の中へ巻き込まれてしまった。
ホームズは婦人を守ろうと群衆の中へ突入したが、そばまで行ったかと思うと、叫び声をあげ、顔から多量の血を流して倒れてしまった。
近衛兵はそれを見て逃げ出し、浮浪者たちも別の方向へ逃げた。めかし込んだ青年たちはこれまで小競り合いを傍観していたが、みんなして婦人を救い出し、負傷した男を介抱しようとした。
結婚前の名で呼ぶが、アイリーン・アドラーは石段を駆け上がった。しかし最上段で立ち止まり、玄関の灯りにあでやかな姿態を映し出されつつ、通りを顧みるのだった。
「この人がいらっしゃらなければ、奥様は財布も時計も盗まれていましたのよ。
なんて悪漢でございましょう。乱暴な。あら、息がございます。」
休まるソファがございますから。こちらから、どうぞ。」
ホームズがゆっくりと物々しくブライオニ荘に運ばれていき、計画の舞台たる居間に安置させられるのを、私は窓のそば、自らの持ち場からじっと見守っていた。
灯りがともされ、ブラインドは引かれていなかったので、ホームズがソファに寝かされる一部始終を見て取れた。
今この瞬間、ホームズは自分のなす演技に良心の呵責を感じているのか知る由もないが、私はかつてないほど恥ずかしく思った。我々はあの美しき女性を欺こうとしているのに、慈悲深くも手負いの男を介抱しているではないか。
しかしここで手を退いては、全幅の信頼を寄せてくれるホームズに対する、何とよこしまな背信行為であろうか。
私は心を殺して、アルスター・コートの下から発煙筒を取りだした。
我々は、彼女が第三者を傷つけるのを阻止するだけなのだ、と自分に言い聞かせた。
Copyright (C) Sir Arthur Conan Doyle, Yu Okubo