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Sherlock Holmes Collection シャーロック・ホームズ コレクション
A Study In Scarlet 緋色の研究 第一部 第三章 4
Sir Arthur Conan Doyle アーサー・コナン・ドイル
AOZORA BUNKO 青空文庫
事件の起こった部屋は所々壁紙が剥離していると述べたが、
隅ではひときわ大きく剥がれ落ちていて、ごつごつした漆喰の壁が四角く見えていた。
この露わになった壁を横切るように、一つの単語が血文字で書き殴ってあった。
「さあどうでしょう。」とその刑事は興行師が見せ物をするがごとく口調で言った。
「見落としです、部屋の隅っこにあったものだから、誰も見ようなんて思わなかったんですよ。
加害者は男か女かわかりませんけど、血で書いたんです。
そのときは火がついていて、ここは照らされていたんなら、暗い暗いこの隅っこが一番明るい場所ですからね。」
「で、見つけたはいいが、どういう意味ですかな?」とグレグソンが鼻を鳴らした。
「意味? ええ、Rachel――レイチェルという女の名前を書こうとして、途中で邪魔されたんですよ。
よぉくあたしの話を聞くんですよ、この事件が何もかもわかったとき、必ずレイチェルという女の影がちらつきますからね。
笑いたければ笑うがいいですよ、シャーロック・ホームズ先生。
あなたはなるほど賢く利口ですけど、終わりの終わりには、老いた猟犬が一番とわかりますよ。」
「いや実に失礼。」と同居人が言ったのは、突然笑い出したためにレストレードが怒りだしたからだった。
「君はこの血文字の第一発見者としての栄誉を担っていいし、言うとおり、血文字を書きし人物が昨夜の謎におけるもう一人の人物なのは間違いない。
だが僕は、まだこの部屋を少しも調べていない。申し訳ないが君のお許しを請うて、今から取りかからねば。」
同居人は懐から巻き尺と大型の円形拡大鏡をさっと取りだした。
この道具二つを持ち、部屋中を音もなく駆け抜け、立ち止まり膝をつきを繰り返した。一度だけ顔を床につけたこともあった。
一心不乱に調べ続け、我々がいることなど何のその。始終ぼそぼそと呟きながら、心高ぶるままに叫んだりうめいたり口笛を吹いたり、またうなずいたり喜んだりしたことが声からわかった。
そばで見ていた私は、熟練した純血のフォックス・ハウンドを連想せずにいられなかった。草むらを縦横無尽に走り抜け、失われた手がかりを見つけるまで、雄叫びを上げながら捜し続けるように。
二〇分ほど捜査は続き、私の目には見えぬ何かから何かへの距離を綿密正確に測ったり、これまた何のためかまったくわからないが、巻き尺を壁にあてがったりした。
あるところでは注意深く床から埃をつまみ上げて、封筒の中へしまったりもした。
そして最後に拡大鏡で壁の文字を見、一つ一つつぶさに調べ上げた。
これが終わると納得とばかりに巻き尺と拡大鏡を懐に戻す。
ホームズはにやりとして、「才能とは、たゆまぬ努力をなせる力のことである、とはよく言ったものだ。
定義としてはまずいが、探偵の仕事をうまく言い当てている。」
グレグソンとレストレードは、素人探偵の大立ち回りを多大な好奇心とそれなりの軽蔑の入り交じった目でながめていた。
ふたりには何が起こったのか理解できずにいるようだが、私にはわかり始めていた。シャーロック・ホームズのやることはどんな小さなものも、すべてがあるはっきりとした現実的な結末を指し示しているのだと。
「僕が出しゃばったりすると、事件の手柄を奪うことになるおそれが。
せっかく捜査が好転しているのだから邪魔をしては申し訳ない。」
「だが捜査状況を逐一知らせてくれるのなら、僕は援助の手を惜しまない。
ところで僕は僕で、死体を見つけた巡査と話がしたい。
「ジョン・ランス。今は非番。ケニントン公園前のオードリ・コート四六です。」
そうだ、事件の役に立つかもしれぬから、一つ言っておこう。」と同居人はふたりの刑事探偵の方を向いて言葉を続ける。
背は六フィート以上、壮年、背格好の割に足は小さい。粗製の、つま先の尖った靴を履き、トリチノポリ葉巻を吸っていた。
犯人と被害者はここまで四輪馬車で来、引く馬の蹄鉄の三つは古く、右前肢だけ新しい。
レストレードとグレグソンは互いに信じられないといった笑みを交わした。
「毒殺。」と単語一つ、シャーロック・ホームズはつかつかと歩き出した。
「もう一つ、レストレード。」と戸口で振り返り、付け加える。「『Rache』はドイツ語でラッヘ、『復讐』という意味だ。だから、レイチェル嬢捜しなどで時間を無駄にせぬよう。」
同居人はパルティアの矢を放ち、ぽかんと口を開けたふたりの競争相手を背の向こうに残したまま、歩き去っていった。
Copyright (C) Sir Arthur Conan Doyle, Yu Okubo