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Sherlock Holmes Collection シャーロック・ホームズ コレクション
A Study In Scarlet 緋色の研究 第二部 第二章 2
Sir Arthur Conan Doyle アーサー・コナン・ドイル
AOZORA BUNKO 青空文庫
ルーシィは男の日に焼けてたくましい顔を見て、笑い飛ばすと、無邪気に言った。
「本当にびっくりした。ポンチョが牛の群にあんなに怯えるなんて。」
「じっとしがみついてくれていたおかげで、何とかなりました。」
男は背が高く、精悍な顔つきの若者で、糟毛の馬にしっかりまたがっていた。服は狩猟用の軽装で、肩からケンタッキー銃を下げている。
「ジョン・フェリアのお嬢さんとお見受けしますが。フェリアさんの家から走り出てきたのを見たもので。
彼にあったら、あのセントルイスのジェファースン・ホープを覚えてますか、とお伝えください。
もしあのフェリアさんなら、私の父とは親友ということになりますし。」
「あなたが来て直接うかがったらいかが?」 とルーシィが不敵に言うと、
若者はこの申し出に喜んだようで、黒い瞳がきらめいた。
「ぜひ。しかしなにぶん二ヶ月も山にいたもので、我々はおうかがいできるような恰好ではありませんから、
その点、お父さんには我慢してもらわなければなりませんね。」
「それどころか、父は感謝しなきゃなりませんよ。それにわたしだって。父は大事にしてくれてるから、
わたしが牛に踏みつぶされでもしたら、立ち直れなくなってたでしょうね。」
「それってどういうことですか? わたしがあなたの何だっていうの。
若者の浅黒い顔がみるみるくもったのを見て、ルーシィ・フェリアは大声で笑った。
「本気で言ったんじゃありませんよ。もちろん、もう友だちです。
挨拶でもしにいらして。あ、わたしもう行かなきゃ。仕事で父の信用を失いたくないし。さようなら。」
「さようなら。」と若者はつば広のソンブレロを持ち上げると、ルーシィも小さな手を振った。
ルーシィはムスタングに回れ右させて、乗馬鞭をふるうと、粉塵の渦巻く広い道に駆け戻っていった。
若きジェファースン・ホープは仲間とともに馬を駆ったが、気分は晴れず、口数も少なかった。
ネヴァダ山脈の中で銀を求め、そして富を増やそうとソルト・レイク・シティに戻った。それに見合うだけの豊かな鉱脈を見つけていた。
ホープは仲間うちでも一番のやり手だったが、この突然の出来事で、ホープの関心は別の方に向けられていた。
この美しく、シエラのそよ風のように天真爛漫な少女を見るだけで、ホープの熱く抑えきれない想いがふつふつとわき上がった。
ルーシィが目の前からいなくなって気づいた。このままでは死んでしまう。銀だって何だって構うもんか。ルーシィのことで頭がいっぱいだ。
この燃え上がる恋心は、突発的で移り気な少年の気まぐれではなく、強い意志と傲然とした気質を持つ、野性的でたくましい男の熱情だった。
この恋もうまくやれると確信していた。人間の努力と忍耐が、むくわれるものである限りは。
ホープはその夜、ジョン・フェリアを訪ねた。何度も赴くうちに、農場でも顔なじみになっていった。
ジョンは狭い谷を出ずに、仕事にだけ励んでいたので、ここ一二年間、外界のことを知る機会がほとんどなかった。
しかしジェファースン・ホープはそのことなら何でも話せたし、実際に話す際、ルーシィも楽しめるように心がけた。
カリフォルニアの開拓者だったから、面白い話には事欠かなかった。まだ西部が何でもありで平穏だった時代の栄枯譚や、
自分が斥候になったときの話、罠猟をやったときの話、銀探しの話、農場主になったときの話など様々な話をした。
冒険の匂いのするところならどこでも、ジェファースン・ホープはかぎつけて、そこに向かっていた。
ホープはすぐに老人の気にいるところとなり、老人は若者を褒めそやした。
そんなとき、ルーシィは口をつぐんでいたが、頬を赤らめ、目を輝かせるので、その女心が男に奪われていることは明らかだった。
父親は純朴なので、こういったきざしも目に入らなかったかもしれないが、その愛を向けられた男が、気づかぬはずもなかった。
ある夏の午後、ホープは道をやって来ると、門の前で馬を止めた。
ルーシィが門の中にいて、ホープの顔を見るために下りてきた。
「ルーシィ、発つことになったんだ。」 ホープはルーシィの両手を取って、顔をやさしく見つめた。「今一緒に来てくれとは言わない。でも、もう一度戻ってきたときに、来る用意はできるよね。」
「彼もいいと言ってくれたよ。この鉱山の仕事がうまくいったら、という条件付きでね。
「うん、信じてる。あなたと父さんがいいって言うなら、もう言うことなんて何もない。」 ルーシィはささやいて、ホープの広い胸に頬を寄せた。
「神さまにお礼を言わなきゃ。」としわがれ声で言うと、ホープは首をかしいで、口づけをした。
そう言うと、ホープはルーシィから離れて、馬にひらりとまたがった。力いっぱいに手綱を引いて、振り返ることもなかった。怖かったのかもしれない。遠ざかる恋人を一目でも見てしまったら、決心が鈍ってしまうから。
ルーシィは門の前に立って、男の後ろ姿が見えなくなるまで見つめていた。
そして、家に戻った。ルーシィはそのとき、ユタでもっとも幸せな少女だった。
Copyright (C) Sir Arthur Conan Doyle, Yu Okubo