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Sherlock Holmes Collection シャーロック・ホームズ コレクション
A Study In Scarlet 緋色の研究 第二部 第四章 3
Sir Arthur Conan Doyle アーサー・コナン・ドイル
AOZORA BUNKO 青空文庫
フェリアの席を外し、娘に来たる旅の準備をさせているあいだ、ジェファースン・ホープは目に付く限りの食料を小さな包みに詰め込んで、広口瓶に水を入れた。経験上、山に井戸は少なく、互いの距離もかなり離れている。
ほぼ支度が終わった頃、農夫は娘にちゃんと服を着せ、出立の用意をさせて戻ってきた。
恋人たちの挨拶は心のこもったものであったが、ごく短く済ませた。わずかな時間が貴重なのだ。やるべきこともたくさんある。
「すぐに発ちます。」ジェファースン・ホープは低い声で言い切る。危険の度合いがわかっているからこそ、それだけ心を鋼にせねばならぬのだ。
「入口は前も後ろも見はられています。けれども慎重にやれば、横の窓から抜け出て、畑を横切ることができます。
いったん道へ出たら、峡谷まではほんの二マイル。馬を待たせてあります。
ホープはリヴォルヴァの床尾をぴしゃりと叩く。上着の前にはみ出ている。
「手に負えないほど多ければ、二・三人は撃ち取ることになります。」苦々しい顔。
家の明かりはみな消され、暗くなった窓からフェリアが麦畑の方をじっとうかがう。自分のものであるが、今や完全に捨てようとしているもの。
だがじっくり考えて決心したのだ、これくらい失ってもいい。娘の名誉と幸せを考えれば、たとえ財産がなくなって後悔しようとも、大したことじゃない。
すべてが穏やかで幸せなもののように思える、さらさら風になびく木々も、大きく静かに広がる畑も。だから余計に、このなかに殺人者が潜んでいるなどとはなかなか思えない。
しかし若いハンターの白い顔とこわばった表情が、この家に近づくまでに見てきたものを、説得力をもって語りかけてくる。
フェリアは金貨と紙幣の袋を運び、ジェファースン・ホープは不十分な食料と水を持ち、一方ルーシィは自分のそれなりに大事な持ち物がちょっとだけ入った小さな包みを手にする。
窓を慎重にゆっくりと開けて、暗い雲が夜を掻きくらすまで待った。そしてひとりずつ庭へと降りていく。
息を殺し、背をかがめてそろりそろりと横切って、生け垣にさっと隠れる。そのまま沿って進み、麦畑へと開いた切れ目へと至る。
そこへたどり着いた途端、若者はふたりの連れをつかんで、影のなかへ引きずり込む。黙り込んで、身体を震えながらも伏せる。
平原での修練が幸い、ジェファースン・ホープの耳は山猫並みであった。
一同がうずくまるが早いか、山梟が憂鬱げにホーホーと鳴くのが聞こえる。ごくごく至近距離で、すぐさままた別のホーホーが応じる。
同時に、人影のようなものが作っておいた切れ目から現れ、その合図の鳴き声をもう一度放つ。するとさらにもうひとりの男が闇から出てくる。
「明日の真夜中。」と初めの者が言う。リーダーだろうか。
「七から五!」もうひとりも繰り返す。ふたりの姿は別々の方角へすばやく消える。
その終わりの言葉は、明らかに何らかの符丁、合い言葉のたぐいだ。
足音が遠ざかり消えると、すぐさまジェファースン・ホープは立ち上がり、連れを助けながらも切れ目を抜けて、全速力で畑を横切る道へと導く。彼女が疲れたときには支えながら、半ば負ぶいながら。
「警戒の網をくぐり抜けているさなかにあっては、速さが勝負なのです。急いで!」
一度何者かに出くわしたが、畑へ滑り込み、何とかやり過ごした。
街に着く手前で、ハンターは山地に続くでこぼこした狭い小道へと折れ曲がる。
二本の黒々と屹立する峰が、頭上の闇のなかでおぼろに見えている。この先へと続いている隘路がイーグル峡谷、馬が一同を待ちかまえているはずのところだ。
馴れた調子で、ジェファースン・ホープは足元に注意しながら進む。大きな岩のあいだを干上がった川底に沿って歩むと、その奥に岩陰となった場所があり、そこに忠実な動物たちがつながれていた。
娘はラバの上に載せられ、フェリア老人は金の袋を持って馬の片方に、そしてジェファースン・ホープはもう片方を険しくも危ない道へと連れて行く。
荒々しい自然と対峙することに馴れていない者には、ひるんでしまうほどの道のりだった。
片側には岩山が一〇〇フィートを越える高さでそびえ立ち、黒くいかめしく、こちらを威嚇している。玄武岩の柱がごつごつした岩肌に並ぶ様は、石化した怪物か何かの肋骨のようだ。
もう片側には石や岩の破片が散らかり放題といったふうで、立ち入ることもできない。
そのあいだにある隘路もまっすぐでなく、ところどころ狭すぎ、インディアンよろしく一列縦隊になるほかなかった。またでこぼこしているため、熟練の乗り手でなければ越えられないほどだ。
だがこの危険困難にもかかわらず、逃げる者たちの心はそこへ至ると軽くなった。というのも、自分たちが逃げる恐ろしい支配から、着実に遠ざかっているからだった。
だがすぐに、自分たちがまだ聖徒たちの手の及ぶにいると思い知らされることになる。
山道でも最も険しいところへやってきたときのことだ、娘があっと驚きの声をあげ、上を指さす。
すると隘路を見渡す、空に向かって黒くそびえる岩の上に、ひとりの歩哨が立っていたのだ。
こちらが気づくと同時に向こうもこちらを見て、「そこを通るのは誰だ」と厳しい誰何が静かな峡谷にこだまする。
「旅人です。ネヴァダへ。」とジェファースン・ホープは言って、鞍に下げている小銃へ手を掛ける。
見えるのは、銃に指をかけた見張り一名のみ。その返事に納得できないとばかりに、こちらを見下ろしている。
モルモンのなかで生きてきたから、今言える最も重い答えがそれだとわかる。
「七から五。」とジェファースン・ホープが素早く返す。庭で聞いた言葉を思い出した。
「通れ。主がそなたと共にあらんことを。」上から声が聞こえた。
その見張りを越えると、道が広くなり、馬も駆け足で走らせることができた。
振り返ってみると、その見張り一名が銃にもたれかかっている。とうとう、一同は選ばれし民の域外へと抜け出たのだ。そして自由が目前に横たわっていることを実感した。
Copyright (C) Sir Arthur Conan Doyle, Yu Okubo