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Sherlock Holmes Collection シャーロック・ホームズ コレクション

A Study In Scarlet 緋色の研究 第二部 第五章 1

Sir Arthur Conan Doyle アーサー・コナン・ドイル
AOZORA BUNKO 青空文庫
第五章 誅天使団
 一晩のあいだ一行は進み、入り組んだ峡谷を経ては曲がりくねった岩だらけの道を越えゆく。
一度ならず迷ったが、ここらの山に詳しいホープが元の道のりに戻してくれる。
夜が明けると、荒々しくも美しい胸打つ風景が目の前に広がった。
どこを見ても果てには雪をかむった峰で、その先の地平線すら見えないほどにそびえている。
一行の両側にある岩盤にしてもかなりの急斜面のため、種々の松の木が頭上を覆うように茂っており、一陣の風が吹くだけで大きくざわめく。
ここを恐れたとしても妄想とは言い切れない。この不毛の谷には、あちらこちら頭上から落ちてきたとおぼしき木や岩も転がっている。
通る際には大岩が大きな音を建てて落ちてきて、静かな谷あいいっぱいに谺を響かせたため、くたびれた馬も驚いて早駆けになってしまったくらいだ。
 太陽がゆっくりと東から昇り、大きな山の頂が次々と明るくなってゆく。祭のかがり火のようで、一面真っ赤に燃えるに至っては、
目にしたものの雄大さに逃げる一行の心も癒され、力も湧き上がる。
流れの速い谷川で馬を留めて水を飲ませ、自分たちも手早く朝食を摂った。
ルーシィとその父親はゆっくり休みたがったが、ジェファースン・ホープは聞き入れなかった。
曰く、「そろそろ追っ手も放たれている。
すべては自分たちの足にかかっている。
カーソンに入りさえすればいくらでもゆっくりしていいんだから。」
 日のあるうちはずっと谷越えを頑張ったから、日没には敵から三〇マイルの差があるはずだった。
高い岩山のふもとで夜を過ごすことにした。そこなら岩で冷たい風もしのげる上、三人で身を寄せ合えば眠る束の間心地よく暖まれる。
だが日の出前には起きてまた先へと急ぐ。
ここまで追っ手の影は見えず、ジェファースン・ホープも凶悪な一味の追っ手を巻けたものと思い始めていた。
知るよしもなかったのだ、鉄の支配が広く及んでいることを、制裁が電光石火で行われることを。
 逃亡二日目の半ばほど、持ち出した乏しい食料も尽き始める。
とはいえハンターたるもの少しの不安もない。山中には獲物がいるはずだし、当人もかねてより必要から銃を物を言わせる羽目が幾たびもあった。
外から見えぬ物陰を選び、乾いた薪を少しく積み上げ、燃ゆる火を起こして父娘に身体を温めさせる。一行の居場所は海抜五〇〇〇フィート、空気も冷たく刺すようなのだ。
馬をつないだ若者は、ルーシィにいとまを告げ、銃を肩に何とか先を切り開こうと踏み出した。
振り返った目には、燃ゆる火の向こうで膝を抱える老人と少女、裏には動かずじっとしている三匹の獣。
あいだにある岩々が獣の目を遮っていた。
 峡谷を次々と数十マイルは回ったが成果はなし。とはいえ樹皮につけられた痕やその他のしるしを見るに、付近にクマが大勢いるようだった。
果たして二・三時間探しても実を結ばず、あきらめて引き返そうと思って目を空に向けたとき、見えた光景に若者の胸はぞわっと喜びでいっぱいになる。
高い峰のへり、頭上三から四〇〇フィートのところに生き物がいた、見た目はどこか羊に似ているが――一組の巨大な角がある。
角の獣――とひとまず呼ぶが――ハンターからは見えない群れの守り役なのだろう。だが幸いにも頭は逆を向いており、まだ若者に気づいていない。
うつぶせになり、小銃を岩に構え、しっかりと狙いを定めて引き金を引く。
獣は宙に跳ね、崖のへりで一瞬よろめくや真下の谷へどさりと落ちる。
 獣は運ぶには手に余るほどの図体があったため、ハンターは仕方なく片脚と脇腹の部分だけを切り取ることにした。
手に入れたものを担いで帰る足を速める。もう日暮れに差し掛かっていた。
ところが出るなりすぐさま困ったことになったと気づく。
夢中のあまり見知らぬ谷まで入り込んでしまっていて、これでは来た道も易々とは見出し得ない。
そのひとつを一マイルも進むと山の急流へと出たが、どう考えても見た覚えのないところだ。
違う道を来たのは明かで、別の道を行ってもみたが結果は同じ。
夜はどんどんと近づき、ようやく見覚えある隘路のひとつへ至ったが、もはや真っ暗に近い。
こうなっては元の道に戻るのも至難の業だ。月が昇るのもまだで、左右の高い崖が暗さを深めている。
荷はじりじりと重く、過労で体力は尽き、歩くのもやっと。何とか気を保てていたのは、一歩ごとにルーシィへと近づいている、食料さえあれば残りの旅もこなせると、何度も反芻すればこそだ。
 そして自分が後にしたまさにその出発点へと辿り着く。
闇にあっても周囲の絶壁の影かたちからわかる。
不安げに待っているはずだ、五時間近くも空けていたのだ、
と若者は心弾ませ口を両手で囲い、着いたという合図に大きな山びこを響かせた。
声を止めて返事に聞き耳を立てるが、
おのれの叫び声のほか返ってくるものはなく、ものわびしい静かな谷あいにこだまするだけ、数え切れない響きが自分の耳へと戻ってくるだけだ。
次は先よりも大きく声を張ったが、やはりついさきほど残してきた仲間からはささやき声ひとつも聞こえない。
得体の知れない恐怖に襲われて、若者は我を忘れて先を急ぐ、心乱れ大事な食料もうち捨てて。
 角を曲がると、野営していたその場所が目の前に現れる。
そこでくすぶる炭の山から見て、若者が発ったあと少しも手入れされてないことがわかる。
あたりはまったく静かで物音ひとつないままだ。
 
Copyright (C) Sir Arthur Conan Doyle, Yu Okubo
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