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The Return of Sherlock Holmes シャーロック・ホームズの帰還
The Adventure Of Charles Augustus Milverton チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン 6
Sir Arthur Conan Doyle アーサー・コナン・ドイル
AOZORA BUNKO 青空文庫
暖炉の一方には厚いカーテンが下りており、先ほど外から見ていた出窓を覆っている。
中央には机が据えられていて、てかてかした赤い革張りの回転椅子がそえてあった。
向かい正面には大きな本棚があり、上にアテネの大理石の胸像がのっている。
本棚の壁の間には背の高い緑色の金庫が置いてあり、その正面につけられた真鍮のノブが暖炉の光を反射していた。
それから、ベッドルームへのドアに忍び寄って頭をよせ、じっと聞き耳を立てた。
その間、退路を確保しておいた方が賢明だと思っていた私は、外にでるドアを試してみた。
ホームズの腕に触って注意を促すと、ホームズはマスクをしたその顔を私が試してみたドアのほうに向けた。
そしてはっとした。明らかに、私と同じく彼にとっても意外だったのだ。
誰かがやってくる音がしたら内側からかんぬきをすること。
そうすればいまきたところからひきかえせる。逆にあっちからきたときは、仕事が終わっていればそのドアから外にでる。終わってなければ、窓のところのカーテンに隠れる。いいね?」
最初に感じた恐怖感はもう消えうせ、研ぎ澄まされた情熱をともなったスリル感を味わっていた。それは、今のような法の侵犯者でなく法の守護者だったときには感じたことのないものだった。
この作戦の高潔な目的。非利己的で騎士道精神溢れる心。敵手のあくどい人格。すべてがこの冒険の正当さを高めていた。
罪の意識はほとんどなく、我々が危険な状態にあると言うことが、むしろ喜びであり嬉しくもあった。
賛嘆の思いに体を火照らせながら、ホームズがあのケースをひらき、微妙な手術をとりおこなおうとしている外科医のような技術的で精密な手つきで工具を選ぶ、その落ちついた姿を見つめていた。
私は、金庫破りがホームズにとって格別の趣味だったことを知っていたし、このグリーンとゴールドのモンスター、その臓腑に数多くの淑女たちの名誉をたくわえこんでいるドラゴンに立ち向かうホームズの喜びも理解できた。
礼服の袖をまくりあげると――コートは椅子にのせてあった――ドリルをふたつ、金梃子、万能鍵のたばを取りだした。
私はまんなかのドアのところに立って、他のドアにも目を配りながら、緊急事態に備えていた。もっとも実際には、邪魔が入ったときにはどうしたらよいか、ばくぜんとしか頭に浮かばなかったが。
三十分ほど、ホームズは根を詰めて作業していた。道具をとっかえひっかえ、熟練のメカニックが持つ強靭さと繊細さでひとつひとつをあつかいながら。
やがてかちりという音がして、大きな緑色のドアが開いた。中を見ると、たくさんの紙包みが、それぞれ結わえられ、封をされた状態で山とつまれていた。表には何か文字が書いてある。
ホームズはそこから一束抜きとってみたが、ちらちらとゆらめく炎の光では読み取ることができず、自分のランタンを引き寄せた。隣の部屋にミルヴァートンがいる以上、電灯をつけるのはあまりにも危険すぎたからだ。
不意に、ホームズはぴたりと動きをとめて聞き耳をたてた。あっというまに金庫のドアを閉めてコートをとりあげ、道具をポケットに押しこむと、私についてくるよう合図しながら出窓のカーテンの後ろに飛びこんだ。
ホームズにしたがってカーテンの陰にもぐりこんだとき、ようやく、私にもホームズの鋭敏な感覚が捕らえたものが聞こえてきた。
それから判別不可能な、くぐもったつぶやき声が聞こえ、重々しい足音が急ぎ足で近づいてきた。
ドアの前で止まる。ドアが開いた。かちっという音がして、電灯がついた。
ドアがもとどおりに閉められ、ぷんとくる強い煙草の臭いが鼻をついた。
それから、我々から一メートルと離れていないところを、足音がいったりきたりした。
それから鍵をまわす音がし、続いて紙のかさかさとすれあう音がした。
そのときまでは覗き見る勇気がなかった私だが、このとき、目の前のカーテンの境目をそっと広げてようすをうかがってみた。
肩にホームズの肩がのしかかってくるあたり、ホームズも私と同じところからのぞきこんでいるのであろう。
我々の右側、手を伸ばせば届きそうなところに、ミルヴァートンの広くて丸っこい肩があった。
ミルヴァートンの今夜の行動について、我々は完全な誤算をしていたわけだ。彼は寝室には行かなかった。喫煙室なりビリヤードルームなり、この家のはるかな翼にあるせいで我々には窓の明かりが見えなかった部屋にいたのだ。
白髪交じりの髪がわずかに残された禿げ頭がつややかに輝いている。それが目の前に見えた。
赤い革をはった椅子に深く腰掛けて足を伸ばし、長くて黒い葉巻を、あの角度からして、口元にくわえているのであろう。
準軍隊様式の喫煙服はワイン色で、黒いビロードのカラーをつけている。
手にした長い法律関係の書類をめんどくさそうに読みながら、ぷかぷかと煙を吐き出している。
どうにもこのくつろいだ態度からするとすぐにはでていきそうにない。
ホームズの手が私の手をそっとゆすった。まるで、自分は落ちついている、この状況をどうにかする自信もある、と言わんとするかのように。
ちょうど私の位置からは、金庫のドアが完全には閉まっていないのが明らかすぎるほどはっきりと見えていた。ホームズにはそれが見えているのかどうか、わからなかった。ミルヴァートンがいつそれに気づいてもおかしくない。
もし、ミルヴァートンの目つきがこわばったりして、金庫のことに気付かれたとわかったときは、飛び出していって、自分のコートを頭にかぶせ羽交い締めにし、あとはホームズに任せようと心に決めた。
彼のけだるそうな興味は手もとの書類に向けられており、弁護士の議論を追って次から次にページをめくっている。
長くとも、その書類を読み終えて葉巻を吸いきれば、部屋を出ていくだろうと思っていた。だが書類も葉巻も健在のうちに、驚くべきことが起こり、我々は頭を切り替えなければならなかった。
私は何度か、ミルヴァートンが時計を取り出すところを目にしていた。一度など、何かが我慢ならないといったしぐさで椅子から立ち、また座りなおしたこともあった。
とはいえ、それが誰かを待っているがためのものだという考えは、やがてベランダからかすかな音が聞こえてくるまで、まったく思い浮かばなかった。
ミルヴァートンは書類を投げ出し、椅子にいかめしく座りなおした。
Copyright (C) Sir Arthur Conan Doyle, Kareha