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ホーム青空文庫シャーロック・ホームズ最後の挨拶

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His Last Bow シャーロック・ホームズ最後の挨拶

The Adventure of the Devil's Foot 悪魔の足 7

Sir Arthur Conan Doyle アーサー・コナン・ドイル
AOZORA BUNKO 青空文庫
「とにかく、それを作業用の前提として受け入れてもよいと思う。
そうすると、両事件で未知の毒性がある空気を生み出すものが燃やされたと考えられる。
そうだ。まず最初の事件――トリジェニス一家の件――では、この物質は暖炉にくべられた。
窓は締まっていたが、暖炉であるからには、当然、ある程度は煙突から出ていった。
そこから考えると、第一の事件では、第二の事件よりも毒物の効果が低くなるはずだ。そして、結果もそれを裏付けている。第一の事件では、女性1人だけが殺された。おそらく、比較的過敏な体質をしていたからだろうな。他の2人は、一時的か、半永久的な狂気に冒された。この薬物の初期症状に違いない。
一方、第二の事件では、完璧な効果がもたらされた。
そうすると、燃焼によって作用する毒物が使用されたという推理ができる。
「この一連の推理が頭にあったから、自然、僕はモーティマー・トリジェニスの部屋からこの物質の残骸を探しまわった。
見るべきところは間違いなく、ランプの防煙部か、滑石製の外装だった。
するとどうだ、そこには若干の風変わりな灰があったし、縁にはまだ燃えていない茶色い粉末があった。
その半分がいま目の前にある。封筒に入れて持ってきたんだ」
「なぜ半分なんだ、ホームズ?」
「ワトスンくん、僕には警察と揉め事を起こす気はないよ。
僕がみつけたあらゆる証拠を連中のために残してきた。
ランプの外装の上には毒物が残っていただろう、それを見つける知恵さえあればね。
さあ、ワトスン、ランプに火をつけよう。だけど、念のためにひとつきりの窓を開けて、社会的価値のある2人の人物の早過ぎる死を回避しておこう。君は窓のそばにある肱掛椅子に座ってくれ。分別のある人間として、君がこの作業から縁を切るというのなら別だけれど。
ああ、見届けるつもりなのかい? 
君のことは分かっていると思っていたけどね、ワトスンくん。
僕の椅子は、君の反対側に置こう。こうすれば、毒から同じ距離をとって、向かい合わせでいることができる。
ドアは半開きにしておこう。
この位置なら、お互いが見えるし、危険な兆候が表れたときには実験を中止することができる。
質問は? 
よし、では例の粉末を――というか、その残骸を――封筒から取り出して、燃え盛るランプの上に置く。
そら! さあ、ワトスン、座って様子を見よう」
それからすぐのことだった。
私が椅子に落ちつくよりも早く、重い、麝香のような香りをかいだ。かすかな、吐き気を催すような臭い。
まさに一嗅ぎしただけで、私の脳と想像力は自由を完全に失った。
厚くて黒い雲が目の前で渦巻き、その雲の中に模糊とした超常的な恐怖が潜伏していることを、私の精神が告げていた。それは目にこそ見えなかったが、全神経に戦慄を広げていった。
ぼんやりとした姿が暗い混濁層の間を渦巻くように泳ぎ、その世界の住人がやってくるぞと脅迫し、警告している。言語に絶するその世界の住人は私の魂を吹き飛ばそうとする影だった。
凍てつくような恐怖が私を捕らえた。
髪が逆立つ。両眼が飛び出し、口は意によらずして開かれる。舌は、まるで革のように感じられる。
まるで何かが折れてしまったかのように、私の頭の中は混乱していた。
悲鳴を上げようとすると、しわがれ声のようなものが微かに聞こえてきた。それは私自身の声だったが、距離的にも感覚的にも遠く響いた。
同時に、何とかこの状態から逃れようと、絶望の雲をつきとおしてホームズの顔を見た。白い、恐怖に強張った顔――まさに、私がこれまでに見てきた死の表情そのものだった。
それを見たとたん、正気と体力が私に戻ってきた。
私は椅子から飛び出すと、ホームズの体を絡めとり、よろめきながら一緒に扉を抜けた。次の瞬間、我々は草地に身を投げ出し、隣り合わせに寝そべっていた。ただ、光輝く日光が、我々に纏わりついていた地獄のような恐怖の雲を吹き飛ばしてくれるのを感じた。
霧に覆われた景色が晴れるように、それはゆっくりと我々の魂から立ち上っていった。平穏と理性が戻ってきた。我々は草の上に座り込み、汗まみれになった額をぬぐいながら、我々が耐え忍んだこの恐怖の経験の跡が残されていないかと、お互いを気遣いあった。
「誓って言うよ、ワトスン!」やがて、ホームズは上ずった声で言った。「君に、感謝し、謝罪する。
正当性にかける実験だった、1人でやるにしてもね。友人と2人でとなればなおさらだ。
まったく本当にすまなかった」
「いいんだ」これほどまでに暖かい態度をとるホームズを見たことがなかったから、私は心をこめて言った。「君に協力するのはこのうえないことだよ」
と、同時に、ホームズは揶揄半分に皮肉半分のいつもの態度に逆戻りした。
「あの実験も、我々を狂気に走らせるには必要なかっただろうよ、ワトスン」と、ホームズは言った。
「遠慮のない観察者はきっとこう断言するだろう。あれほど狂った実験をやるからには、それ以前にもう狂っているに違いない、とね。
白状するが、あれほど急激な効果を持っているとは思いもしなかった」
ホームズはコテージに走りこんだ。すぐに出てくると、ぎりぎりまでのばした腕に握ったランプを、茨の茂みの中に放りこんだ。
 
Copyright (C) Sir Arthur Conan Doyle, Kareha
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