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The Return of Sherlock Holmes シャーロック・ホームズの帰還
The Adventure Of The Empty House 空き家の冒険 8
Sir Arthur Conan Doyle アーサー・コナン・ドイル
AOZORA BUNKO 青空文庫
昔馴染の室は、そのミクロフト・ホームズの管理と、ハドソン夫人の行き届いた注意で、全く昔ながらの儘であった。
非常にキレイではあったし、また凡ての位置は昔日のままであった。
化学実験所や、酸に侵された樅板をはったテーブルもある。
それから本棚には、驚異すべき切り抜き帳や、かつてはロンドン市民を熱狂せしめた大事件の参考書が、一ぱい立ち並んでいた。
それから図表、バァイオリンケース、パイプ架、それから更に波斯スリッパー、――……と、それぞれ見まわす目に止まった。
室の中には二人の人間が居た、――一人はすなわちハドソン夫人で、私達二人が入って行ったら、目を輝かして歓迎してくれた。それからもう一人は、全く見知らぬ無言役者、――すなわち今夜の大活劇に、最も重要な役目を演じた、
私の友人の蝋色の胸像――なるほど実に驚異すべきまでに、その真を模写していた。
小さな卓台の上に置かれて、ホームズの常に着用する、寛服を着けさせているので、なるほど街路から見れば、理想的に完全な影絵を映していたに相違なかった。
「ハドソン夫人、僕はあなたの最善の注意を、念願していましたよ」 ホームズは夫人に云った。
「わたしはあなたから云われた通り、膝で歩いてやりましたわ」
「上出来です。あなたは実によくやって下さいました。
あなたは弾丸がどこに飛んだか、御覧になりましたか?」
「え、見ましたわ。弾丸はあなたの美しい半身像を、痛ましく損ねたようでございますよ。弾丸は右から頭部を貫通して、後の壁に当って、平べったくなりましたの。
わたしはそれを床敷の上から拾ってここにございますわ」
夫人のさし出した弾丸を、ホームズは私の前にさし示した。
しかしたしかに全く天才だね。まさかこんなものが、空気銃から飛び出て来たものだとは、思わないからね。
いやハドソン夫人、実に有難う、衷心から感謝します。あなたの御助力には、満腔の謝意を表明します。
さてワトソン君、一つこの昔馴染の椅子に掛けてくれないかね。実は君と大に談じてみたい問題もあるんだが、――」
ホームズは見すぼらしいフロックコートを脱ぎ捨てて、半身像から例の鼠色の寛服を取って着たので、依然たるシャーロック・ホームズに返った。
「しかしあの老猟師の神経はやはりまだ正確で、また視力も依然鋭いものだね!」 ホームズは半身像の打ち砕かれた額を検べながら云った。
「後頭部の中央に正確に的中り、脳を貫通しているよ。
彼は印度では第一の名射手であったが、しかしこのロンドンでも、彼の右に出ずる者は、はなはだ少なかろうと思うな。
「そうだよ。彼はそれほどに定評者だよ。さてそれからたぶん君は現世紀で最も偉大な頭脳の所有者の一人である、ゼームス・モリアーティ教授の名前を、まだ知らなかったと思うがね。
ちょっとその伝記索引を、本棚からとってくれたまえ」
彼は不精らしく頁をくって、椅子に反り返って、葉巻から大きく煙を吐いた。
「M部の蒐集は大したものだよ」 彼は説明し出した。
「まあモリアーティは云わずもがな、大したものだし、それから毒殺者のモルガンがある。それからあの忌々しいマシュウス。チャリング・クロスの待合室で、俺の左の犬歯をたたき折った奴。それから最後が、吾々の今夜の友人、――」
彼は本を渡してくれたので、私は読んだ。「モラン・セバスチャン大佐、無職。第一ベンガル先発隊に配属したることあり。
一八四〇年ロンドンに生る。波斯駐在の英国公使たりし、男爵オーガスタス・モランの息。イートンとオックスフォードに学ぶ。
ジョッキとアフガンに従軍し、キャラシァブ、シャープール及びカブールに駐屯したる事あり。
一八八一年出版の、『西部ヒマラヤの大狩猟』と、一八八四年に出版となった、『大叢林の中の三ヶ月』との二書の著者。
住所、コンデュート街。所属倶楽部、英印倶楽部、タンカービル倶楽部、バガテル骨牌倶楽部」
そしてその余白に、ホームズの達筆で、「ロンドンで第二の危険人物」
とある。私は本を返しながら云った。「これは驚いた。
彼は鉄のような神経の持ち主だ。彼には負傷した人食虎を追跡して、下水溝にまで這い下りたと云う逸話が、今でも印度で話題になっているほどなんだよ。
木にもある処までは、非常にいい形で伸びて来ながら、急に変な恰好に変化してしもうのがあるが、
君、ああしたことはやはり人間の上にもあることなんだね。
これは僕の持論なんだが、つまり個性の進展と云うことも要するに、その先祖の一貫した全過程を表現しているもので、また途中で急激に、善悪いずれかの方面に転換するとも、やはり血統の上の、強いある影響が、そうさせるのだと思うよ。
つまり云ってみれば、人間と云うものは、それぞれの家庭史の梗概なんだね」
「そうかね、しかしそれはあまりに牽強附会ではないかね」
「はははははははそうか、いや、別に固執もしないがね。
表立った醜聞はなかったにしても、何しろ印度は彼の身持ちのためには暑すぎた。
彼はロンドンに帰って来ては、いよいよ悪名を流した。
しかもこの時、あのモリアーティ教授は、彼を拾って、重要な児分にしたのだがね。
Copyright (C) Sir Arthur Conan Doyle, Otokichi Mikami