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坊っちゃん 十 Botchan Chapter X (2)

夏目漱石 Soseki Natsume

青空文庫 AOZORA BUNKO
余興は午後にあると云う話だから、ひとまず下宿へ帰って、こないだじゅうから、気に掛《かか》っていた、清への返事をかきかけた。
今度はもっと詳《くわ》しく書いてくれとの注文だから、なるべく念入《ねんいり》に認《したた》めなくっちゃならない。
しかしいざとなって、半切《はんきれ》を取り上げると、書く事はたくさんあるが、何から書き出していいか、わからない。
あれにしようか、あれは面倒臭《めんどうくさ》い。これにしようか、これはつまらない。
何か、すらすらと出て、骨が折れなくって、そうして清が面白がるようなものはないかしらん、と考えてみると、
そんな注文通りの事件は一つもなさそうだ。おれは墨《すみ》を磨《す》って、筆をしめして、巻紙を睨《にら》めて、――巻紙を睨めて、筆をしめして、墨を磨って――同じ所作を同じように何返も繰《く》り返したあと、おれには、とても手紙は書けるものではないと、諦《あきら》めて硯《すずり》の蓋《ふた》をしてしまった。
手紙なんぞをかくのは面倒臭い。
やっぱり東京まで出掛けて行って、逢《あ》って話をするのが簡便だ。
清の心配は察しないでもないが、清の注文通りの手紙を書くのは三七日の断食《だんじき》よりも苦しい。
 おれは筆と巻紙を抛《ほう》り出して、ごろりと転がって肱枕《ひじまくら》をして庭《にわ》の方を眺《なが》めてみたが、
その時おれはこう思った。こうして遠くへ来てまで、清の身の上を案じていてやりさえすれば、おれの真心《まこと》は清に通じるに違いない。
通じさえすれば手紙なんぞやる必要はない。
やらなければ無事で暮《くら》してると思ってるだろう。
たよりは死んだ時か病気の時か、何か事の起った時にやりさえすればいい訳だ。
 庭は十坪《とつぼ》ほどの平庭で、これという植木もない。
ただ一本の蜜柑《みかん》があって、塀《へい》のそとから、目標《めじるし》になるほど高い。
おれはうちへ帰ると、いつでもこの蜜柑を眺める。
東京を出た事のないものには蜜柑の生《な》っているところはすこぶる珍《めずら》しいものだ。
あの青い実がだんだん熟してきて、黄色になるんだろうが、定めて奇麗《きれい》だろう。
今でももう半分色の変ったのがある。
婆《ばあ》さんに聞いてみると、すこぶる水気の多い、旨《うま》い蜜柑だそうだ。
今に熟《うれ》たら、たんと召《め》し上がれと云ったから、
毎日少しずつ食ってやろう。
もう三週間もしたら、充分《じゅうぶん》食えるだろう。
まさか三週間以内にここを去る事もなかろう。
 おれが蜜柑の事を考えているところへ、偶然《ぐうぜん》山嵐《やまあらし》が話しにやって来た。
今日は祝勝会だから、君といっしょにご馳走《ちそう》を食おうと思って牛肉を買って来たと、
竹の皮の包《つつみ》を袂《たもと》から引きずり出して、座敷《ざしき》の真中《まんなか》へ抛り出した。
おれは下宿で芋責《いもぜめ》豆腐責になってる上、蕎麦《そば》屋行き、団子《だんご》屋行きを禁じられてる際だから、そいつは結構だと、すぐ婆さんから鍋《なべ》と砂糖をかり込んで、煮方《にかた》に取りかかった。
 山嵐は無暗《むやみ》に牛肉を頬張《ほおば》りながら、君あの赤シャツが芸者に馴染《なじみ》のある事を知ってるかと聞くから、
知ってるとも、この間うらなりの送別会の時に来た一人がそうだろうと云ったら、そうだ僕《ぼく》はこの頃《ごろ》ようやく勘づいたのに、君はなかなか敏捷《びんしょう》だと大いにほめた。
「あいつは、ふた言目には品性だの、精神的娯楽《ごらく》だのと云う癖《くせ》に、裏へ廻《まわ》って、芸者と関係なんかつけとる、
怪《け》しからん奴《やつ》だ。
それもほかの人が遊ぶのを寛容《かんよう》するならいいが、
君が蕎麦屋へ行ったり、団子屋へはいるのさえ取締上《とりしまりじょう》害になると云って、校長の口を通して注意を加えたじゃないか」
「うん、あの野郎の考えじゃ芸者買は精神的娯楽で、天麩羅や、団子は物理的娯楽なんだろう。
精神的娯楽なら、もっと大べらにやるがいい。何だあの様《ざま》は。
馴染の芸者がはいってくると、入れ代りに席をはずして、逃げるなんて、どこまでも人を胡魔化《ごまか》す気だから気に食わない。そうして人が攻撃《こうげき》すると、僕は知らないとか、露西亜《ロシア》文学だとか、俳句が新体詩の兄弟分だとか云って、人を烟《けむ》に捲《ま》くつもりなんだ。
あんな弱虫は男じゃないよ。
全く御殿女中《ごてんじょちゅう》の生れ変りか何かだぜ。
ことによると、あいつのおやじは湯島のかげまかもしれない」
「湯島のかげまた何だ」
「何でも男らしくないもんだろう。
――君そこのところはまだ煮えていないぜ。
そんなのを食うと絛虫《さなだむし》が湧《わ》くぜ」
「そうか、大抵《たいてい》大丈夫《だいじょうぶ》だろう。
それで赤シャツは人に隠《かく》れて、温泉《ゆ》の町の角屋《かどや》へ行って、芸者と会見するそうだ」
「角屋って、あの宿屋か」
「宿屋兼料理屋さ。
だからあいつを一番へこますためには、あいつが芸者をつれて、あすこへはいり込むところを見届けておいて面詰《めんきつ》するんだね」
「見届けるって、夜番《よばん》でもするのかい」
「うん、角屋の前に枡屋《ますや》という宿屋があるだろう。
あの表二階をかりて、障子《しょうじ》へ穴をあけて、見ているのさ」
「見ているときに来るかい」
「来るだろう。どうせひと晩じゃいけない。
二週間ばかりやるつもりでなくっちゃ」
「随分《ずいぶん》疲れるぜ。
僕あ、おやじの死ぬとき一週間ばかり徹夜《てつや》して看病した事があるが、あとでぼんやりして、大いに弱った事がある」
「少しぐらい身体が疲れたって構わんさ。
あんな奸物《かんぶつ》をあのままにしておくと、日本のためにならないから、僕が天に代って誅戮《ちゅうりく》を加えるんだ」
「愉快《ゆかい》だ。そう事が極まれば、おれも加勢してやる。
それで今夜から夜番をやるのかい」
「まだ枡屋に懸合《かけあ》ってないから、今夜は駄目だ」
「それじゃ、いつから始めるつもりだい」
「近々のうちやるさ。いずれ君に報知をするから、そうしたら、加勢してくれたまえ」
「よろしい、いつでも加勢する。
僕《ぼく》は計略《はかりごと》は下手《へた》だが、喧嘩とくるとこれでなかなかすばしこいぜ」
 
Copyright (C) Soseki Natsume, Yasotaro Morri, J. R. KENNEDY
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