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坊っちゃん 十 Botchan Chapter X (3)

夏目漱石 Soseki Natsume

青空文庫 AOZORA BUNKO
 おれと山嵐がしきりに赤シャツ退治の計略《はかりごと》を相談していると、宿の婆さんが出て来て、学校の生徒さんが一人、堀田《ほった》先生にお目にかかりたいててお出《い》でたぞなもし。
今お宅へ参じたのじゃが、お留守《るす》じゃけれ、大方ここじゃろうてて捜《さが》し当ててお出でたのじゃがなもしと、閾《しきい》の所へ膝《ひざ》を突《つ》いて山嵐の返事を待ってる。
山嵐はそうですかと玄関《げんかん》まで出て行ったが、やがて帰って来て、君、生徒が祝勝会の余興を見に行かないかって誘《さそ》いに来たんだ。
今日は高知《こうち》から、何とか踴《おど》りをしに、わざわざここまで多人数《たにんず》乗り込んで来ているのだから、是非見物しろ、
めったに見られない踴《おどり》だというんだ、君もいっしょに行ってみたまえと山嵐は大いに乗り気で、おれに同行を勧める。
おれは踴なら東京でたくさん見ている。
毎年八幡様《はちまんさま》のお祭りには屋台が町内へ廻ってくるんだから汐酌《しおく》みでも何でもちゃんと心得ている。
土佐っぽの馬鹿踴なんか、見たくもないと思ったけれども、せっかく山嵐が勧めるもんだから、つい行く気になって門へ出た。
山嵐を誘いに来たものは誰かと思ったら赤シャツの弟だ。
妙《みょう》な奴《やつ》が来たもんだ。
 会場へはいると、回向院《えこういん》の相撲《すもう》か本門寺《ほんもんじ》の御会式《おえしき》のように幾旒《いくながれ》となく長い旗を所々に植え付けた上に、世界万国の国旗をことごとく借りて来たくらい、縄《なわ》から縄、綱《つな》から綱へ渡《わた》しかけて、大きな空が、いつになく賑《にぎ》やかに見える。
東の隅《すみ》に一夜作りの舞台《ぶたい》を設けて、ここでいわゆる高知の何とか踴りをやるんだそうだ。
舞台を右へ半町ばかりくると葭簀《よしず》の囲いをして、活花《いけばな》が陳列《ちんれつ》してある。
みんなが感心して眺めているが、一向くだらないものだ。
あんなに草や竹を曲げて嬉《うれ》しがるなら、背虫の色男や、跛《びっこ》の亭主《ていしゅ》を持って自慢《じまん》するがよかろう。
 舞台とは反対の方面で、しきりに花火を揚げる。
花火の中から風船が出た。帝国万歳《ていこくばんざい》とかいてある。
次はぽんと音がして、黒い団子が、しょっと秋の空を射抜《いぬ》くように揚《あ》がると、それがおれの頭の上で、ぽかりと割れて、青い烟《けむり》が傘《かさ》の骨のように開いて、だらだらと空中に流れ込んだ。
風船がまた上がった。
今度は陸海軍万歳と赤地に白く染め抜いた奴が風に揺られて、
温泉《ゆ》の町から、相生村《あいおいむら》の方へ飛んでいった。
大方観音様の境内《けいだい》へでも落ちたろう。
 式の時はさほどでもなかったが、今度は大変な人出だ。
田舎にもこんなに人間が住んでるかと驚《おど》ろいたぐらいうじゃうじゃしている。
利口《りこう》な顔はあまり見当らないが、数から云うとたしかに馬鹿に出来ない。
そのうち評判の高知の何とか踴が始まった。
踴というから藤間か何ぞのやる踴りかと早合点していたが、これは大間違いであった。
 いかめしい後鉢巻《うしろはちまき》をして、立《た》っ付《つ》け袴《ばかま》を穿《は》いた男が十人ばかりずつ、舞台の上に三列に並《なら》んで、その三十人がことごとく抜き身を携《さ》げているには
魂消《たまげ》た。
前列と後列の間はわずか一尺五寸ぐらいだろう、左右の間隔《かんかく》はそれより短いとも長くはない。
たった一人列を離《はな》れて舞台の端《はし》に立ってるのがあるばかりだ。
この仲間外《はず》れの男は袴だけはつけているが、後鉢巻は倹約して、抜身の代りに、胸へ太鼓《たいこ》を懸《か》けている。
太鼓は太神楽《だいかぐら》の太鼓と同じ物だ。この男がやがて、いやあ、はああと呑気《のんき》な声を出して、妙な謡《うた》をうたいながら、太鼓をぼこぼん、ぼこぼんと叩《たた》く。
歌の調子は前代未聞の不思議なものだ。
三河万歳《みかわまんざい》と普陀洛《ふだらく》やの合併《がっぺい》したものと思えば大した間違いにはならない。
 歌はすこぶる悠長《ゆうちょう》なもので、夏分の水飴《みずあめ》のように、だらしがないが、
句切りをとるためにぼこぼんを入れるから、
この拍子に応じて三十人の抜き身がぴかぴかと光るのだが、これはまたすこぶる迅速《じんそく》なお手際で、拝見していても冷々《ひやひや》する。
隣《とな》りも後ろも一尺五寸以内に生きた人間が居て、その人間がまた切れる抜き身を自分と同じように振《ふ》り舞《ま》わすのだから、よほど調子が揃《そろ》わなければ、同志撃《どうしうち》を始めて怪我《けが》をする事になる。
それも動かないで刀だけ前後とか上下とかに振るのなら、まだ危険《あぶなく》もないが、三十人が一度に足踏《あしぶ》みをして横を向く時がある。ぐるりと廻る事がある。膝を曲げる事がある。
隣りのものが一秒でも早過ぎるか、遅《おそ》過ぎれば、自分の鼻は落ちるかも知れない。隣りの頭はそがれるかも知れない。
抜き身の動くのは自由自在だが、その動く範囲《はんい》は一尺五寸角の柱のうちにかぎられた上に、前後左右のものと同方向に同速度にひらめかなければならない。
こいつは驚いた、なかなかもって汐酌《しおくみ》や関《せき》の戸《と》の及《およ》ぶところでない。
聞いてみると、これははなはだ熟練の入るもので容易な事では、こういう風に調子が合わないそうだ。
ことにむずかしいのは、かの万歳節のぼこぼん先生だそうだ。
三十人の足の運びも、手の働きも、腰《こし》の曲げ方も、ことごとくこのぼこぼん君の拍子一つで極まるのだそうだ。
傍《はた》で見ていると、この大将が一番呑気そうに、
いやあ、はああと気楽にうたってるが、その実ははなはだ責任が重くって非常に骨が折れるとは不思議なものだ。
 
Copyright (C) Soseki Natsume, Yasotaro Morri, J. R. KENNEDY
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