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坊っちゃん 十 Botchan Chapter X (4)
夏目漱石 Soseki Natsume
青空文庫 AOZORA BUNKO
おれと山嵐が感心のあまりこの踴を余念なく見物していると、半町ばかり、向うの方で急にわっと云う鬨の声がして、
今まで穏《おだ》やかに諸所を縦覧していた連中が、にわかに波を打って、右左りに揺《うご》き始める。
人の袖《そで》を潜《くぐ》り抜《ぬ》けて来た赤シャツの弟が、
中学の方で、今朝《けさ》の意趣返《いしゅがえ》しをするんで、また師範《しはん》の奴と決戦を始めたところです、
早く来て下さいと云いながらまた人の波のなかへ潜《もぐ》り込《こ》んでどっかへ行ってしまった。
山嵐は世話の焼ける小僧だまた始めたのか、いい加減にすればいいのに
と逃げる人を避《よ》けながら一散に馳《か》け出した。
見ている訳にも行かないから取り鎮《しず》めるつもりだろう。
おれは無論の事逃げる気はない。山嵐の踵《かかと》を踏んであとからすぐ現場へ馳けつけた。
師範の方は五六十人もあろうか、中学はたしかに三割方多い。
師範は制服をつけているが、中学は式後大抵《たいてい》は日本服に着換《きが》えているから、敵味方はすぐわかる。
しかし入り乱れて組んづ、解《ほご》れつ戦ってるから、どこから、どう手を付けて引き分けていいか分らない。
山嵐は困ったなと云う風で、しばらくこの乱雑な有様を眺めていたが、こうなっちゃ仕方がない。巡査《じゅんさ》がくると面倒だ。飛び込んで分けようと、おれの方を見て云うから、
おれは返事もしないで、いきなり、一番喧嘩の烈《はげ》しそうな所へ躍《おど》り込《こ》んだ。
止《よ》せ止せ。そんな乱暴をすると学校の体面に関わる。よさないかと、
出るだけの声を出して敵と味方の分界線らしい所を突《つ》き貫《ぬ》けようとしたが、なかなかそう旨《うま》くは行かない。
一二間はいったら、出る事も引く事も出来なくなった。
目の前に比較的《ひかくてき》大きな師範生が、十五六の中学生と組み合っている。
止せと云ったら、止さないかと師範生の肩《かた》を持って、無理に引き分けようとする途端《とたん》にだれか知らないが、下からおれの足をすくった。
おれは不意を打たれて握《にぎ》った、肩を放して、横に倒《たお》れた。
堅《かた》い靴《くつ》でおれの背中の上へ乗った奴がある。
両手と膝を突いて下から、跳《は》ね起きたら、乗った奴は右の方へころがり落ちた。
起き上がって見ると、三間ばかり向うに山嵐の大きな身体が生徒の間に挟《はさ》まりながら、止せ止せ、喧嘩は止せ止せと揉み返されてるのが見えた。
おい到底駄目だと云ってみたが聞えないのか返事もしない。
ひゅうと風を切って飛んで来た石が、いきなりおれの頬骨《ほおぼね》へ中《あた》ったなと思ったら、後ろからも、背中を棒《ぼう》でどやした奴がある。
教師の癖《くせ》に出ている、打《ぶ》て打てと云う声がする。
教師は二人だ。大きい奴と、小さい奴だ。石を抛《な》げろ。と云う声もする。
おれは、なに生意気な事をぬかすな、田舎者の癖にと、いきなり、傍《そば》に居た師範生の頭を張りつけてやった。
石がまたひゅうと来る。今度はおれの五分《ぶ》刈《がり》の頭を掠《かす》めて後ろの方へ飛んで行った。
こうなっちゃ仕方がない。始めは喧嘩をとめにはいったんだが、
どやされたり、石をなげられたりして、恐《おそ》れ入って引き下がるうんでれがんがあるものか。
おれを誰だと思うんだ。身長《なり》は小さくっても喧嘩の本場で修行を積んだ兄さんだと
無茶苦茶に張り飛ばしたり、張り飛ばされたりしていると、
今まで葛練《くずね》りの中で泳いでるように身動きも出来なかったのが、急に楽になったと思ったら、敵も味方も一度に引上げてしまった。
田舎者でも退却《たいきゃく》は巧妙だ。クロパトキンより旨いくらいである。
山嵐はどうしたかと見ると、紋付《もんつき》の一重羽織《ひとえばおり》をずたずたにして、向うの方で鼻を拭《ふ》いている。
鼻柱をなぐられて大分出血したんだそうだ。鼻がふくれ上がって真赤《まっか》になってすこぶる見苦しい。
おれは飛白《かすり》の袷《あわせ》を着ていたから泥《どろ》だらけになったけれども、山嵐の羽織ほどな損害はない。
しかし頬《ほっ》ぺたがぴりぴりしてたまらない。山嵐は大分血が出ているぜと教えてくれた。
巡査は十五六名来たのだが、生徒は反対の方面から退却したので、捕《つら》まったのは、おれと山嵐だけである。
おれらは姓名《せいめい》を告げて、一部始終を話したら、
ともかくも警察まで来いと云うから、警察へ行って、署長の前で事の顛末《てんまつ》を述べて下宿へ帰った。
Copyright (C) Soseki Natsume, Yasotaro Morri, J. R. KENNEDY