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坊っちゃん 二 Botchan Chapter II (2)
夏目漱石 Soseki Natsume
青空文庫 AOZORA BUNKO
相変らず空の底が突《つ》き抜《ぬ》けたような天気だ。
道中《どうちゅう》をしたら茶代をやるものだと聞いていた。茶代をやらないと粗末《そまつ》に取り扱われると聞いていた。
こんな、狭《せま》くて暗い部屋へ押《お》し込めるのも茶代をやらないせいだろう。
見すぼらしい服装《なり》をして、ズックの革鞄と毛繻子《けじゅす》の蝙蝠傘《こうもり》を提げてるからだろう。
田舎者の癖に人を見括《みくび》ったな。一番茶代をやって驚《おどろ》かしてやろう。
おれはこれでも学資のあまりを三十円ほど懐《ふところ》に入れて東京を出て来たのだ。
汽車と汽船の切符代と雑費を差し引いて、まだ十四円ほどある。
みんなやったってこれからは月給を貰《もら》うんだから構わない。
田舎者はしみったれだから五円もやれば驚《おど》ろいて眼を廻《まわ》すに極《きま》っている。
どうするか見ろと済《すま》して顔を洗って、部屋へ帰って待ってると、夕べの下女が膳を持って来た。
盆《ぼん》を持って給仕をしながら、やににやにや笑ってる。
飯を済ましてからにしようと思っていたが、癪《しゃく》に障《さわ》ったから、中途《ちゅうと》で五円札《さつ》を一枚《まい》出して、あとでこれを帳場へ持って行けと云ったら、
学校は昨日《きのう》車で乗りつけたから、大概《たいがい》の見当は分っている。四つ角を二三度曲がったらすぐ門の前へ出た。
門から玄関《げんかん》までは御影石《みかげいし》で敷《し》きつめてある。
きのうこの敷石の上を車でがらがらと通った時は、無暗《むやみ》に仰山《ぎょうさん》な音がするので少し弱った。
途中から小倉《こくら》の制服を着た生徒にたくさん逢《あ》ったが、みんなこの門をはいって行く。
あんな奴を教えるのかと思ったら何だか気味が悪《わ》るくなった。
校長は薄髯《うすひげ》のある、色の黒い、目の大きな狸《たぬき》のような男である。
やにもったいぶっていた。まあ精出して勉強してくれと云って、恭《うやうや》しく大きな印の捺《おさ》った、辞令を渡《わた》した。
この辞令は東京へ帰るとき丸めて海の中へ抛り込《こ》んでしまった。
校長は今に職員に紹介《しょうかい》してやるから、一々その人にこの辞令を見せるんだと云って聞かした。
余計な手数だ。そんな面倒《めんどう》な事をするよりこの辞令を三日間職員室へ張り付ける方がましだ。
教員が控所《ひかえじょ》へ揃《そろ》うには一時間目の喇叭《らっぱ》が鳴らなくてはならぬ。
校長は時計を出して見て、追々《おいおい》ゆるりと話すつもりだが、まず大体の事を呑《の》み込んでおいてもらおうと云って、それから教育の精神について長いお談義を聞かした。
おれは無論いい加減に聞いていたが、途中からこれは飛んだ所へ来たと思った。
おれみたような無鉄砲《むてっぽう》なものをつらまえて、生徒の模範《もはん》になれの、一校の師表《しひょう》と仰《あお》がれなくてはいかんの、学問以外に個人の徳化を及《およ》ぼさなくては教育者になれないの、と無暗に法外な注文をする。
そんなえらい人が月給四十円で遥々《はるばる》こんな田舎へくるもんか。
腹が立てば喧嘩《けんか》の一つぐらいは誰でもするだろうと思ってたが、この様子じゃめったに口も聞けない、散歩も出来ない。
そんなむずかしい役なら雇《やと》う前にこれこれだと話すがいい。
おれは嘘《うそ》をつくのが嫌《きら》いだから、仕方がない、だまされて来たのだとあきらめて、思い切りよく、ここで断《こと》わって帰っちまおうと思った。
宿屋へ五円やったから財布《さいふ》の中には九円なにがししかない。
茶代なんかやらなければよかった。惜《お》しい事をした。
到底《とうてい》あなたのおっしゃる通りにゃ、出来ません、
校長は狸のような眼をぱちつかせておれの顔を見ていた。
あなたが希望通り出来ないのはよく知っているから心配しなくってもいいと云いながら笑った。
そのくらいよく知ってるなら、始めから威嚇《おどさ》さなければいいのに。
Copyright (C) Soseki Natsume, Yasotaro Morri, J. R. KENNEDY