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坊っちゃん 二 Botchan Chapter II (3)

夏目漱石 Soseki Natsume

青空文庫 AOZORA BUNKO
 そう、こうする内に喇叭が鳴った。教場の方が急にがやがやする。
もう教員も控所へ揃いましたろうと云うから、校長に尾いて教員控所へはいった。
広い細長い部屋の周囲に机を並《なら》べてみんな腰《こし》をかけている。
おれがはいったのを見て、みんな申し合せたようにおれの顔を見た。
見世物じゃあるまいし。
それから申し付けられた通り一人一人《ひとりびとり》の前へ行って辞令を出して挨拶《あいさつ》をした。
大概《たいがい》は椅子《いす》を離れて腰をかがめるばかりであったが、
念の入ったのは差し出した辞令を受け取って一応拝見をしてそれを恭《うやうや》しく返却《へんきゃく》した。まるで宮芝居の真似《まね》だ。
十五人目に体操《たいそう》の教師へと廻って来た時には、同じ事を何返もやるので少々じれったくなった。
向《むこ》うは一度で済む。こっちは同じ所作《しょさ》を十五返繰り返している。
少しはひとの了見《りょうけん》も察してみるがいい。
 挨拶をしたうちに教頭のなにがしと云うのが居た。
これは文学士だそうだ。
文学士と云えば大学の卒業生だからえらい人なんだろう。
妙《みょう》に女のような優しい声を出す人だった。
もっとも驚いたのはこの暑いのにフランネルの襯衣《しゃつ》を着ている。
いくらか薄《うす》い地には相違《そうい》なくっても暑いには極ってる。
文学士だけにご苦労千万な服装《なり》をしたもんだ。
しかもそれが赤シャツだから人を馬鹿《ばか》にしている。
あとから聞いたらこの男は年が年中赤シャツを着るんだそうだ。
妙な病気があった者だ。
当人の説明では赤は身体《からだ》に薬になるから、衛生のためにわざわざ誂《あつ》らえるんだそうだが、
入らざる心配だ。そんならついでに着物も袴《はかま》も赤にすればいい。
それから英語の教師に古賀《こが》とか云う大変顔色の悪《わ》るい男が居た。
大概顔の蒼《あお》い人は瘠《や》せてるもんだがこの男は蒼くふくれている。
昔《むかし》小学校へ行く時分、浅井《あさい》の民《たみ》さんと云う子が同級生にあったが、この浅井のおやじがやはり、こんな色つやだった。
浅井は百姓《ひゃくしょう》だから、百姓になるとあんな顔になるかと清に聞いてみたら、
そうじゃありません、あの人はうらなりの唐茄子《とうなす》ばかり食べるから、蒼くふくれるんですと教えてくれた。
それ以来蒼くふくれた人を見れば必ずうらなりの唐茄子を食った酬《むく》いだと思う。
この英語の教師もうらなりばかり食ってるに違《ちが》いない。
もっともうらなりとは何の事か今もって知らない。
清に聞いてみた事はあるが、清は笑って答えなかった。
大方清も知らないんだろう。
それからおれと同じ数学の教師に堀田《ほった》というのが居た。
これは逞《たくま》しい毬栗坊主《いがぐりぼうず》で、
叡山《えいざん》の悪僧《あくそう》と云うべき面構《つらがまえ》である。
人が叮寧《ていねい》に辞令を見せたら見向きもせず、やあ君が新任の人か、
ちと遊びに来給《きたま》えアハハハと云った。
何がアハハハだ。
そんな礼儀《れいぎ》を心得ぬ奴の所へ誰が遊びに行くものか。
おれはこの時からこの坊主に山嵐《やまあらし》という渾名《あだな》をつけてやった。
漢学の先生はさすがに堅《かた》いものだ。
昨日お着きで、さぞお疲れで、それでもう授業をお始めで、大分ご励精《れいせい》で、――と
のべつに弁じたのは愛嬌《あいきょう》のあるお爺《じい》さんだ。
画学の教師は全く芸人風だ。
べらべらした透綾《すきや》の羽織を着て、扇子《せんす》をぱちつかせて、お国はどちらでげす、え? 東京? そりゃ嬉《うれ》しい、
お仲間が出来て……私《わたし》もこれで江戸《えど》っ子ですと云った。
こんなのが江戸っ子なら江戸には生れたくないもんだと心中に考えた。
そのほか一人一人についてこんな事を書けばいくらでもある。しかし際限がないからやめる。
 挨拶が一通り済んだら、校長が今日はもう引き取ってもいい、もっとも授業上の事は数学の主任と打ち合せをしておいて、明後日《あさって》から課業を始めてくれと云った。
数学の主任は誰かと聞いてみたら例の山嵐であった。
忌々《いまいま》しい、こいつの下に働くのかおやおやと失望した。
山嵐は「おい君どこに宿《とま》ってるか、山城屋か、うん、今に行って相談する」
と云い残して白墨《はくぼく》を持って教場へ出て行った。
主任の癖に向うから来て相談するなんて不見識な男だ。しかし呼び付けるよりは感心だ。
 
Copyright (C) Soseki Natsume, Yasotaro Morri, J. R. KENNEDY
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