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坊っちゃん 三 Botchan Chapter III (3)

夏目漱石 Soseki Natsume

青空文庫 AOZORA BUNKO
学校の方はどうかこうか無事に勤まりそうだが、こう骨董責《こっとうぜめ》に逢《あ》ってはとても長く続きそうにない。
 そのうち学校もいやになった。  
ある日の晩大町《おおまち》と云う所を散歩していたら郵便局の隣《とな》りに蕎麦《そば》とかいて、下に東京と注を加えた看板があった。
おれは蕎麦が大好きである。
東京に居《お》った時でも蕎麦屋の前を通って薬味の香《にお》いをかぐと、どうしても暖簾《のれん》がくぐりたくなった。
今日までは数学と骨董で蕎麦を忘れていたが、こうして看板を見ると素通りが出来なくなる。
ついでだから一杯食って行こうと思って上がり込んだ。
見ると看板ほどでもない。
東京と断《こと》わる以上はもう少し奇麗にしそうなものだが、
東京を知らないのか、金がないのか、滅法《めっぽう》きたない。
畳《たたみ》は色が変ってお負けに砂でざらざらしている。
壁《かべ》は煤《すす》で真黒《まっくろ》だ。
天井《てんじょう》はランプの油烟《ゆえん》で燻《くす》ぼってるのみか、低くって、思わず首を縮めるくらいだ。
ただ麗々と蕎麦の名前をかいて張り付けたねだん付けだけは全く新しい。
何でも古いうちを買って二三日《にさんち》前から開業したに違《ちが》いなかろう。
ねだん付の第一号に天麩羅《てんぷら》とある。
おい天麩羅を持ってこいと大きな声を出した。
するとこの時まで隅《すみ》の方に三人かたまって、何かつるつる、ちゅうちゅう食ってた連中《れんじゅう》が、ひとしくおれの方を見た。
部屋《へや》が暗いので、ちょっと気がつかなかったが
顔を合せると、みんな学校の生徒である。
先方で挨拶《あいさつ》をしたから、おれも挨拶をした。
その晩は久《ひさ》し振《ぶり》に蕎麦を食ったので、旨《うま》かったから天麩羅を四杯平《たいら》げた。
 翌日何の気もなく教場へはいると、黒板一杯ぐらいな大きな字で、天麩羅先生とかいてある。
おれの顔を見てみんなわあと笑った。
おれは馬鹿馬鹿しいから、天麩羅を食っちゃ可笑《おか》しいかと聞いた。
すると生徒の一人《ひとり》が、しかし四杯は過ぎるぞな、もし、と云った。
四杯食おうが五杯食おうがおれの銭でおれが食うのに文句があるもんかと、さっさと講義を済まして控所へ帰って来た。
十分立って次の教場へ出ると一つ天麩羅四杯なり。但《ただ》し笑うべからず。と黒板にかいてある。
さっきは別に腹も立たなかったが今度は癪《しゃく》に障《さわ》った。
冗談《じょうだん》も度を過ごせばいたずらだ。
焼餅《やきもち》の黒焦《くろこげ》のようなもので誰《だれ》も賞《ほ》め手はない。
田舎者はこの呼吸が分からないからどこまで押《お》して行っても構わないと云う了見《りょうけん》だろう。
一時間あるくと見物する町もないような狭《せま》い都に住んで、外に何にも芸がないから、天麩羅事件を日露《にちろ》戦争のように触《ふ》れちらかすんだろう。
憐《あわ》れな奴等《やつら》だ。
小供の時から、こんなに教育されるから、いやにひねっこびた、植木鉢《うえきばち》の楓《かえで》みたような小人《しょうじん》が出来るんだ。
無邪気《むじゃき》ならいっしょに笑ってもいいが、こりゃなんだ。
小供の癖《くせ》に乙《おつ》に毒気を持ってる。
おれはだまって、天麩羅を消して、こんないたずらが面白いか、卑怯《ひきょう》な冗談だ。君等は卑怯と云う意味を知ってるか、と云ったら、
自分がした事を笑われて怒《おこ》るのが卑怯じゃろうがな、もしと答えた奴がある。
わざわざ東京から、こんな奴を教えに来たのかと思ったら情なくなった。
余計な減らず口を利かないで勉強しろと云って、授業を始めてしまった。
それから次の教場へ出たら天麩羅を食うと減らず口が利きたくなるものなりと書いてある。
どうも始末に終えない。
あんまり腹が立ったから、そんな生意気な奴は教えないと云ってすたすた帰って来てやった。
生徒は休みになって喜んだそうだ。
 
Copyright (C) Soseki Natsume, Yasotaro Morri, J. R. KENNEDY
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