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坊っちゃん 三 Botchan Chapter III (2)
夏目漱石 Soseki Natsume
青空文庫 AOZORA BUNKO
それからうちへ帰ってくると、宿の亭主《ていしゅ》がお茶を入れましょうと云ってやって来る。
お茶を入れると云うからご馳走《ちそう》をするのかと思うと、おれの茶を遠慮《えんりょ》なく入れて自分が飲むのだ。
この様子では留守中《るすちゅう》も勝手にお茶を入れましょうを一人《ひとり》で履行《りこう》しているかも知れない。
亭主が云うには手前は書画骨董《しょがこっとう》がすきで、とうとうこんな商買を内々で始めるようになりました。
あなたもお見受け申すところ大分ご風流でいらっしゃるらしい。
二年前ある人の使《つかい》に帝国《ていこく》ホテルへ行った時は錠前《じょうまえ》直しと間違《まちが》えられた事がある。
ケットを被《かぶ》って、鎌倉《かまくら》の大仏を見物した時は車屋から親方と云われた。
その外今日《こんにち》まで見損《みそくな》われた事は随分あるが、まだおれをつらまえて大分ご風流でいらっしゃると云ったものはない。
風流人なんていうものは、画《え》を見ても、頭巾《ずきん》を被《かぶ》るか短冊《たんざく》を持ってるものだ。
このおれを風流人だなどと真面目に云うのはただの曲者《くせもの》じゃない。
おれはそんな呑気《のんき》な隠居《いんきょ》のやるような事は嫌《きら》いだと云ったら、
亭主はへへへへと笑いながら、いえ始めから好きなものは、どなたもございませんが、いったんこの道にはいるとなかなか出られませんと一人で茶を注いで妙な手付《てつき》をして飲んでいる。
実はゆうべ茶を買ってくれと頼《たの》んでおいたのだが、こんな苦い濃《こ》い茶はいやだ。
今度からもっと苦くないのを買ってくれと云ったら、かしこまりましたとまた一杯しぼって飲んだ。
人の茶だと思って無暗《むやみ》に飲む奴《やつ》だ。
主人が引き下がってから、明日の下読《したよみ》をしてすぐ寝《ね》てしまった。
毎日毎日帰って来ると主人がお茶を入れましょうと出てくる。
一週間ばかりしたら学校の様子もひと通りは飲み込めたし、宿の夫婦の人物も大概《たいがい》は分った。
ほかの教師に聞いてみると辞令を受けて一週間から一ヶ月ぐらいの間は自分の評判がいいだろうか、悪《わ》るいだろうか非常に気に掛《か》かるそうであるが、
教場で折々しくじるとその時だけはやな心持ちだが三十分ばかり立つと奇麗《きれい》に消えてしまう。
おれは何事によらず長く心配しようと思っても心配が出来ない男だ。
教場のしくじりが生徒にどんな影響《えいきょう》を与《あた》えて、その影響が校長や教頭にどんな反応を呈《てい》するかまるで無頓着《むとんじゃく》であった。
おれは前に云う通りあまり度胸の据《すわ》った男ではないのだが、思い切りはすこぶるいい人間である。
この学校がいけなければすぐどっかへ行《ゆ》く覚悟《かくご》でいたから、
狸《たぬき》も赤シャツも、ちっとも恐《おそろ》しくはなかった。
まして教場の小僧《こぞう》共なんかには愛嬌《あいきょう》もお世辞も使う気になれなかった。
学校はそれでいいのだが下宿の方はそうはいかなかった。
十《とお》ばかり並《なら》べておいて、みんなで三円なら安い物だお買いなさいと云う。
田舎巡《いなかまわ》りのヘボ絵師じゃあるまいし、そんなものは入らないと云ったら、
今度は華山《かざん》とか何とか云う男の花鳥の掛物《かけもの》をもって来た。
自分で床《とこ》の間《ま》へかけて、いい出来じゃありませんかと云うから、そうかなと好加減《いいかげん》に挨拶《あいさつ》をすると、
華山には二人《ふたり》ある、一人は何とか華山で、一人は何とか華山ですが、この幅《ふく》はその何とか華山の方だと、
くだらない講釈をしたあとで、どうです、あなたなら十五円にしておきます。お買いなさいと催促《さいそく》をする。
金なんか、いつでもようございますとなかなか頑固《がんこ》だ。
金があつても買わないんだと、その時は追っ払《ぱら》っちまった。
その次には鬼瓦《おにがわら》ぐらいな大硯《おおすずり》を担ぎ込んだ。
端渓ですと二遍《へん》も三遍も端渓がるから、面白半分に端渓た何だいと聞いたら、
今時のものはみんな上層ですが、これはたしかに中層です、
試してご覧なさいと、おれの前へ大きな硯を突《つ》きつける。
いくらだと聞くと、持主が支那《しな》から持って帰って来て是非売りたいと云いますから、お安くして三十円にしておきましょうと云う。
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