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坊っちゃん 三 Botchan Chapter III (1)
夏目漱石 Soseki Natsume
青空文庫 AOZORA BUNKO
初めて教場へはいって高い所へ乗った時は、何だか変だった。
講釈をしながら、おれでも先生が勤まるのかと思った。
時々図抜《ずぬ》けた大きな声で先生と云《い》う。先生には応《こた》えた。
今まで物理学校で毎日先生先生と呼びつけていたが、先生と呼ぶのと、呼ばれるのは雲泥《うんでい》の差だ。
おれは卑怯《ひきょう》な人間ではない。臆病《おくびょう》な男でもないが、惜《お》しい事に胆力《たんりょく》が欠けている。
先生と大きな声をされると、腹の減った時に丸の内で午砲《どん》を聞いたような気がする。
控所《ひかえじょ》へ帰って来たら、山嵐がどうだいと聞いた。
うんと単簡に返事をしたら山嵐は安心したらしかった。
二時間目に白墨《はくぼく》を持って控所を出た時には何だか敵地へ乗り込《こ》むような気がした。
教場へ出ると今度の組は前より大きな奴《やつ》ばかりである。
おれは江戸《えど》っ子で華奢《きゃしゃ》に小作りに出来ているから、どうも高い所へ上がっても押《お》しが利かない。
喧嘩《けんか》なら相撲取《すもうとり》とでもやってみせるが、こんな大僧《おおぞう》を四十人も前へ並《なら》べて、ただ一枚《まい》の舌をたたいて恐縮《きょうしゅく》させる手際はない。
しかしこんな田舎者《いなかもの》に弱身を見せると癖《くせ》になると思ったから、なるべく大きな声をして、少々巻き舌で講釈してやった。
最初のうちは、生徒も烟《けむ》に捲《ま》かれてぼんやりしていたから、
ますます得意になって、べらんめい調を用いてたら、一番前の列の真中《まんなか》に居た、一番強そうな奴が、いきなり起立して先生と云う。
もちっと、ゆるゆる遣《や》って、おくれんかな、もし」と云った。
早過ぎるなら、ゆっくり云ってやるが、おれは江戸っ子だから君等《きみら》の言葉は使えない、
ただ帰りがけに生徒の一人がちょっとこの問題を解釈をしておくれんかな、もし、と出来そうもない幾何《きか》の問題を持って逼《せま》ったには
仕方がないから何だか分らない、この次教えてやると急いで引き揚《あ》げたら、
箆棒《べらぼう》め、先生だって、出来ないのは当り前だ。
出来ないのを出来ないと云うのに不思議があるもんか。そんなものが出来るくらいなら四十円でこんな田舎へくるもんか
うんと云ったが、うんだけでは気が済まなかったから、この学校の生徒は分らずやだなと云ってやった。
三時間目も、四時間目も昼過ぎの一時間も大同小異であった。
三時までぽつ然《ねん》として待ってなくてはならん。
三時になると、受持級の生徒が自分の教室を掃除《そうじ》して報知《しらせ》にくるから検分をするんだそうだ。
それから、出席簿《しゅっせきぼ》を一応調べてようやくお暇《ひま》が出る。
いくら月給で買われた身体《からだ》だって、あいた時間まで学校へ縛《しば》りつけて机と睨《にら》めっくらをさせるなんて法があるものか。
しかしほかの連中はみんな大人《おとな》しくご規則通りやってるから新参のおればかり、だだを捏《こ》ねるのもよろしくないと思って我慢《がまん》していた。
帰りがけに、君何でもかんでも三時過《すぎ》まで学校にいさせるのは愚《おろか》だぜと山嵐に訴えたら、
あとから真面目《まじめ》になって、君あまり学校の不平を云うと、いかんぜ。
随分《ずいぶん》妙な人も居るからなと忠告がましい事を云った。
四つ角で分れたから詳《くわ》しい事は聞くひまがなかった。
Copyright (C) Soseki Natsume, Yasotaro Morri, J. R. KENNEDY