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The Great Gatsby 華麗なるギャツビー
Chapter2-1
Francis Scott Fitzgerald F・スコット・フィッツジェラルド
AOZORA BUNKO 青空文庫
ウェスト・エッグからニューヨークに至る道のほぼ中間にあたるところで、自動車道路があせったように鉄道と肩を並べ、そこから四百メートルいっしょに走る。まるである種のうらぶれた地域から身を遠ざけるみたいに。
ここは灰の谷――灰が麦のように生育し、尾根や丘やグロテスクな庭にまで広がっている。そこで灰は家となり、煙突となり、もくもくと上がる煙となり、やがて途方もない苦労のすえに、灰色の人間となる。かれらの動きは緩慢《かんまん》で、そもそも粉っぽい空気のせいで何がどうなっているのかわかりづらい。
ときには灰色の車の行列が目に見えない道に沿って這《は》いずるようにやってくる。悪寒を走らせるような軋《きし》を立てて止まると、そこから即座に灰色の人間の群れが手に手に鉛の鋤《すき》を持って降り立ち、そこら中をひっかきまわしたあげく、一面が雲に覆われ、他人の視界からはなんの作業をやっているのかわからなくなってしまう。
だが、この灰色の土地、終わりなく立ちこめる荒涼《こうりょう》とした塵の向こうを見透かそうとしてみたならば、やがて、高みから見下ろすT・J・エクルバーグ博士の瞳が見えてくることだろう。
T・J・エクルバーグ博士の瞳は青く、並外れて大きい――網膜《もうまく》は縦一メートル近くもある。
それが乗るべき顔面はなく、その代わりに、実在しない鼻をまたいで繋がっている巨大な黄色い眼鏡をかけている。
あきらかに、でたらめな道化者《どうけもの》の眼科医が、クイーンズ区あたりの自分の診療所をにぎわそうとして設置したに違いない。そして、その医者自身が不治《ふじ》の無明《むみょう》に沈んでいったか、あるいは、忘れたまま引っ越してしまったのだろう。
けれどもその瞳は、ずっとペンキを塗りなおされておらず少し色褪《いろあ》せてはいたけれど、晴れの日も雨の日も、このごみ捨て場みたいな土地に目を光らせていた。
灰の谷の片側には、境界線を兼ねる汚い小川が流れていて、この川にかかる跳橋が荷船を通すために上げられていると、橋が降りるのを待つ列車の乗客たちは、最大三十分、そこの陰鬱《いんうつ》な景色を見ることができた。
最低でも一分はきまって停車する。そしてそれが、ぼくをトム・ブキャナンの女に会わせることになった。
トムに女がいるという事実は、トムを知る人ならば誰だって知っていることだった。
トムの知り合いたちは憤慨《ふんがい》していたけど、トムはその女を連れて有名なカフェに立ち寄り、彼女をテーブルに残したまま、あちこち歩き回って、知り合いと見ればだれにでも話しかけるらしい。
好奇心から一度その女を見てみたいとは思っていたにしても、別にぜひ会ってみたかったわけではない――それなのに、ぼくはこの女と会うことになったのだ。
ぼくはある日の午後、トムと一緒にニューヨーク行きの列車に乗っていた。この灰の山のかたわらで列車が停まると、トムは席から立ちあがり、ぼくの肘をつかんで文字どおり無理やりにぼくを車両から追いたてた。
「降りるぞ」とかれは言いはった。「おれの女と会わせておきたい」
思えば、トムは昼食の席でかなり飲んでいた。ぼくをつれていこうという決意は無茶苦茶なものだった。
横柄にも、ぼくが日曜の午後にすべきことなど他にあるはずがないと決めつけたのだ。
ぼくはかれを追って鉄道の低い白塗りのフェンスを乗り越え、そしてエクルバーグ博士の監視を受けながら道に沿って一キロメートルほどひきかえす。
目の届くかぎり、建物と言えばこの荒れはてた土地のはずれにある黄色い煉瓦《れんが》のこじんまりとした塊だけだった。メインストリートのミニチュアみたいなところで、隣接するものはなにもなかった。
その建物内は三つの店舗が入れるようになっていて、ひとつはテナント募集中、もうひとつは終夜営業のレストランで、この店へは灰の小道がひかれている。そして三軒めはリペアガレージだった――修理.ジョージ・B・ウィルソン.自動車売買――そこに入っていったトムを、ぼくも後から追った。
内装は飾り気がなかった。一台だけある車はフォードのスクラップで、薄ぐらい片隅で埃をかぶっている。
ふと、この陰気な店はただの目くらましで、頭上には贅沢でロマンティックな部屋があるにちがいない、と思いついた。そのとき、経営者そのひとが奥の事務所から、原型をとどめていない布切れで手をぬぐいつつ現れた。
金髪の無気力そうな男だったが、顔立ちはハンサムといえないこともない。
ぼくらを目にすると、きれいな碧眼《へきがん》に濁った希望の光が差した。
「やあ、ウィルソン」とトムは相手の肩を陽気に叩きながら言った。「景気はどうだ?」
「おかげさまで」とウィルソンは言葉を濁《にご》した。
「えらく遅い仕事ぶりみたいですが、そうお思いになりませんか?」
「ぜんぜん」とトムの返事は冷たい。「そんなことを言うんだったら、結局、他の所で売ったほうがいいかもしれんな」
「いえ、そういうつもりじゃあ」とウィルソンがあわてて説明した。「ただつまり――」
そこから先は続かなかった。トムはガレージをいらだたしげに見まわした。
と、階段を降りる足音が聞こえてきて、次の瞬間、事務所のドアからひとりの女が出てきた。
三十代半ばといったところで、太っていると言えなくもなかったが、むしろその肉付きのよさは、一部の女にしかみられない類の魅力となっていた。
ドレスは水玉模様の入ったダークブルーのクレープ・デ・シン。そこから飛び出している顔には輝くようなきらめくような美しさはなかったにしても、全身からすぐそれと分かるバイタリティが感じられた。全身の神経が絶えず煙をあげているような感じだ。
女はかすかにほほえむと、まるで幽霊をつきぬけるみたいにして夫の前に出、トムの手をにぎりしめた。瞳がきらめいた。
それから唇を湿らせると、振りかえらずに、物柔らかだけれども野卑な声で夫に言った。「椅子くらい持ってきなさいよ、なにをしてるんだか。どなたかお座りになりたいかもしれないでしょ」
「おお、そうだな」とあわてて同意したウィルソンは、小さな事務所に向かい、そのまま鼠色《ねずみいろ》の壁に溶けこむように消えた。
この界隈《かいわい》のものはすべてそうなのだけど、かれの地味なスーツも、色の薄い髪もまた、灰で覆われていた――例外はこの妻だけだった。そして彼女が、トムに近づいた。
「会いたいんだ」とトムは熱っぽく言った。「次の列車に乗れよ」
彼女はうなずいてトムのそばをはなれた。ちょうどそこでジョージ・ウィルソンが椅子をふたつ抱えて事務所のドアを開けた。
ぼくらは彼女が支度をすませ、道に出て視界から消えるまで待った。
七月四日まであと何日もなかった。灰色のやせこけたイタリア人少年が、線路の上に癇癪玉《かんしゃくだま》を並べていた。
「ひどいところだろう?」と、エクルバーグ博士と眉をしかめあいながら言った。
「ウィルソン? ニューヨークの妹のところに会いに行ってるんだと思ってるよ。
あいつは鈍いんだ。自分が生きてるってことすら気づいてないかも」
Copyright (C) Francis Scott Fitzgerald, Kareha