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The Great Gatsby 華麗なるギャツビー
Chapter2-2
Francis Scott Fitzgerald F・スコット・フィッツジェラルド
AOZORA BUNKO 青空文庫
というわけで、ぼくはトムとその女といっしょに、ニューヨーク行きの列車に乗っていた――いっしょにといっても、ミセス・ウィルソンは別の車両に座っていたが。
これは、潔癖なイースト・エッグの住民と乗り合わるかもしれないというトムの配慮による。
ミセス・ウィルソンは茶色のモスリンに着替えていた。ヒップがちょっと苦しかったもので、ニューヨークのプラットフォームではトムが手を貸してやっていた。
新聞の売店で、彼女は『タウン・タトル』と映画雑誌を一部買い求めた。それから、駅のドラッグストアでコールドクリームと香水の瓶を。
階段を上って重苦しい音が響くタクシー待ち場に出ると、彼女は四台のタクシーをやりすごし、五台めの真新しいタクシーを選んだ。外装はラベンダー色で、中は灰色にまとめられていた。それに乗って、ぼくらは混み合う駅からぎらぎらと照りつける太陽の下へとすべりだした。
が、発車後すぐにするどく窓を振りかえったミセス・ウィルソンが、前に身を乗り出して運転席との間を仕切るガラスをこんこんと叩いた。
「あの犬のどれか、欲しい」と熱心に言う。「あの部屋に一匹飼っておきたいのよ。すてきじゃない――犬を飼うって」
ぼくらは白髪頭《しらがあたま》の老人のところにひきかえした。老人の容貌《ようぼう》は、馬鹿げたことに、ジョン・D・ロックフェラーそっくりだった。
首から吊るしている籠《かご》の中には、血統は不確かながら結構こぎれいな子犬たちが収まっている。
「種類はなに?」とミセス・ウィルソンは、男がタクシーの窓ぎわに寄ってきたところで、熱心にたずねた。
「なんでもございますよ。奥さまはどういう種類がお望みですか?」
「警察犬みたいなのが欲しいの。そういうのってないかもしれないけど」
男は自信なさそうに籠をのぞきこみ、手を差し入れて一匹の子犬の首根をつかんでひっぱりだしてきた。子犬はじたばたと暴れている。
「そう、正確には警察犬とは言えません」とがっかりした声で言う。「エアデルといったほうがよろしいです」
と言って、子犬の茶色い背中を、手ぬぐいで手を拭くみたいに撫で回した。
「この毛並みをごらんください。ちょっとしたものですよ。この犬は風邪《かぜ》をひいたりしてご心配をおかけするようなことがありませんよ」
「かわいい」とミセス・ウィルソンは熱っぽく言った。「いくら?」
「こいつですか?」と言うとたたえるような目つきで子犬を見る。「十ドルにしておきましょう」
そのエアデルは――足ははっとするほど白かったけれど、たしかに、どこかエアデルの血は引いているようだった――老人の手からミセス・ウィルソンの膝に移動し、主人を変えた。ミセス・ウィルソンがうっとりとした顔で、自分の膝の上にいる子犬の暖かそうな毛をなでる。
「これ、男の子、女の子?」デリカシーのある聞き方だった。
「そいつはメスだ」とトムが決めつけるように言う。「金はここにある。こいつで十匹でも仕入れてくるんだな」
ぼくらは五番街を疾走《しっそう》した。暖かく、優しく、牧歌的《ぼっかてき》とさえいえそうな夏の日曜の午後だった。角から羊《ひつじ》の大群が出てきたとしても、驚きはしなかっただろう。
「待って」とぼくは言った。「ここでお別れしないと」
「アパートまできてくれないとマートルが傷つく。そうだろ、マートル?」
「おいでなさいよ」と彼女もしきりにすすめた。「妹のキャサリンにも電話する。
あの子のことを知ってるひとみんな、とてもきれいだって誉めるんだから」
「いや、行きたいことは行きたいんですが、でも――」
ぼくらはそのまま走りつづけた。ふたたびパークを抜け、西区に向かう。百番代の通りにきてもまだ走りつづけたが、
一五八番街、白の細長いケーキみたいなアパートの前でタクシーは停まった。
王が帰ってきたときのような視線で近隣を睥睨《へいげい》しながら、ミセス・ウィルソンは犬を他の買い物荷物といっしょに抱え上げ、横柄な態度で中に入った。
「マッキーさんも家族そろって呼ぶつもり」と、彼女はエレベーターの中でアナウンスした。「それからもちろん、妹にも電話する」
部屋は最上階だった――こじんまりとしたリビング、こじんまりとしたダイニング、こじんまりとしたベッドルーム、それから浴室。
リビングは四面ドアだらけ、タペストリーをかけられた家具一式はあまりに大きすぎて、ちょっと歩くたびにベルサイユの庭のブランコに貴婦人たちが揺れるシーンにつまづくありさまだった。
一枚だけかけられている額縁《がくぶち》には無理に拡大された写真が収められている。どうやらかすんだ岩に休む雌鶏《めんどり》を撮ったものらしく見える。
が、遠くからみると雌鶏は婦人帽と化し、老婦人の顔が部屋を見下ろしている、という案配《あんばい》。
テーブルの上にあるのは、『タウン・タトル』のバックナンバーが何部か、そのそばに『ペテロと呼ばれしシモン』が一部、それからブロードウェイ関係の小さなゴシップ誌が何部か。
ミセス・ウィルソンがまず気がけたのは、犬のことだった。
いやいやながらに箱一杯の藁《わら》とミルクをいくらかとりにやらされたエレベーターボーイは、その他独断で、大きくて堅い犬用ビスケットのブリキ缶を運んできた――そこからとりだされた一枚が、その日の午後ずっとミルク皿に浸され、けだるそうに崩れていくことになる。
トムはといえば施錠《せじょう》されていたドレッサーからウイスキーを一本取り出してきた。
ぼくが酔っ払ったのは一生に二度しかない。二度めはこの午後のことだ。だから、見ることすべてが霧がかかっているみたいにおぼつかなかった。八時すぎてもなお太陽が燦々《さんさん》と室内を照らしていたというのにだ。
トムの膝に座ったミセス・ウィルソンは何人かに電話をかけていた。煙草がなかったものだから、ぼくが角のドラッグストアまで買いに行った。
もどってきてみるとふたりは連れだって姿を消していたため、ぼくはおとなしくリビングに腰を落ちつけ、『ペテロと呼ばれしシモン』を一くぎり読んでいった。小説がひどい代物だったためか、ウイスキーがよく回る代物だったためか。どちらにせよ、ぼくにはこの小説が何を言いたいのかさっぱりわからなかった。
トムとマートル(飲みはじめたとたん、ぼくとミセス・ウィルソンはおたがいをファーストネームで呼びあうようになった)が帰ってきたちょうどそのとき、客たちがやってきた。
問題の妹キャサリンは、ほっそりとした世俗的な女で、年のころは三十ほど。量が多くて重苦しそうな赤毛をばっさりショートにしている。顔はパウダーで乳白色になっていた。
眉毛《まゆげ》は引きぬかれて前より粋な角度に描きなおされていたけれど、もとの形を取りもどそうとする自然治癒能力のせいで顔全体がぼやけた感じだ。
動き回るたびに腕に数えきれないほどはめた陶器の腕輪が上下し、涼しげな音をたてた。
ここにきたとき、まるで自分の部屋に帰ってきたみたいな態度だったから、ぼくはここに住んでいる人なんだろうかと思ったりした。
けれども、実際にそうたずねてみると、彼女は遠慮なく笑ってぼくの質問を大きな声でくりかえすと、女友達とホテルに住んでいると言った。
Copyright (C) Francis Scott Fitzgerald, Kareha