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The Great Gatsby 華麗なるギャツビー
Chapter4-1
Francis Scott Fitzgerald F・スコット・フィッツジェラルド
AOZORA BUNKO 青空文庫
日曜の朝、教会の鐘が海岸の村々に鳴り響く中、ギャツビー邸には俗世とその女主人がもどってきて、芝生の上に狂騒《きょうそう》を繰り広げる。
「あのひとはね、お酒の密造をやってるの」と若い女性たちは、話題の人物のカクテルと花々とを往復しながら言った。
「あるときなんか、あのひとがヒンデンブルク元帥の甥で、悪魔のまた従弟だってのをかぎつけたやつを殺したこともあるのよ。
ねえあなた、そこのバラ、こっちに回して。それから、あそこのクリスタルグラスに最後の一滴まで注いでよ」
ぼくは一度、時刻表の余白に、あの夏ギャツビーのところを訪れた人々の名前を書きとめてみたことがある。
すでに古くなったその時刻表は、折り目のところから千切れてしまいそうだ。ヘッダには「一九二二年七月五日以降の運行予定」とある。
それでもまだ、そこにあるかすれた名前は読めるし、その名前を並べたてるほうが、あの夏にギャツビーのもてなしを受け、それでいてギャツビーについてはまったくなにひとつ知りはしないという報いるところの薄い人々のことを、ぼくが大雑把《おおざっぱ》にまとめてしまうよりも、イメージとして分かりやすいだろう。
イースト・エッグからきていたのは、チェスター・ベッカー夫妻にリーチ夫妻。それからブンセンという男。かれについてはぼくもイェール時代に知っていた。ドクター・ウェブスター・シベット。こちらは昨年夏にメーンで溺死した。
ホーンビーム夫妻、ウィーリー・ボルテール夫妻。それからブラックバックという名の一族郎党。かれらはいつも隅に席をとり、近づくものがあると鼻を山羊《やぎ》みたいにつんとそらした。
イズメイ夫妻、クリスティ夫妻(というよりむしろヒューバート・アウアバッハとクリスティ夫人というべきだろうか)。エドガー・ビーバー。かれの頭髪はある冬の午後わけもなにもなく突如真っ白になったという噂だ。
クラレンス・エンディブもイースト・エッグからきていたように記憶している。
やってきたのは一度だけで、白のニッカボッカー姿で現れたかれは、庭でエティという放蕩者《ほうとうもの》と喧嘩《けんか》をやらかした。
ロング・アイランドのはずれからやってきたのはシードル夫妻、O・R・P・シュレーダー夫妻、ジョージアのストーンウォール・ジャクソン・エイブラム夫妻、フィッシュガード夫妻、リプリー・スネル夫妻。
スネルは刑務所行きの三日前にもきて、さんざん飲んだあげく砂利敷きの私道に寝そべり、ミセス・ユリシーズ・スウェットの自動車に右手を轢《ひ》かれた。
ダンシー夫妻もいたし、S・B・ホワイトベイトもいた。これは齢六十をゆうに超える老人だ。モーリス・A・フリンク、ハンマーヘッド夫妻、煙草輸入商ベルガ、それからベルガの娘たち。
ウェスト・エッグからはポール夫妻、マーリーディー夫妻、セシル・ローバック、セシル・ショーエン、ガリック上院議員。ニュートン・オーキッド、これはフィルムズ・パー・エクセレンスの支配者だ。エクホースト、クライド・コーエン、ドン・S・シュワルツ(息子のほうだ)、それからアーサー・マッカーティー。ここまでは何らかの形で映画界にコネのある人々。
続いてカトリップ夫妻、ベンバーグ夫妻、G・アール・マルドゥーン。後に細君を絞め殺したマルドゥーンの兄弟にあたる。
映画界のパトロンであるダ・フォンタノもきていたし、エド・レグロスにジェイムズ・B・(“安酒”)フェレット、ド・ジョング夫妻、アーネスト・リリーもいた――かれらはギャンブルをやりにきていて、フェレットがぶらりと庭に出てきたときはつまりかれがすってんてんになったということであり、それと同時に、翌日のアソシエイテッド・トラクション株は上向きになると見て間違いなかった。
クリップスプリンガーという名の男はしょっちゅうギャツビー邸にきて、しかも長々といつづけるものだから、「下宿人」として知られていた――かれには他に帰るところがなかったのではないかと思う。
演劇人としては、ガス・ウェイズ、ホレイス・オドネイバン、レスター・マイヤー、ジョージ・ダックウィード、フランシス・ブル。
またニューヨークからはクロム夫妻、バックヒッソン夫妻、デニッカー夫妻、それからラッセル・ベティーにコーリガン夫妻、ケルハー夫妻、デウォー夫妻、スカリー夫妻、S・W・ベルチャー、スマーク夫妻、それに、クインという、いまはもう離婚した、若夫婦。それからヘンリー・L・パルメトー、後にタイムズ・スクウェアで地下鉄の正面に飛び出し、自殺。
ベニー・マクレナハンはいつも四人の女の子を連れてきた。
顔ぶれはいつも違っていたはずなのに、ひとりひとりが似通っていたもので、これは以前もきていた娘だと思えてならなかった。
名前はもう覚えていない――ジャクリーンとかコンスエラとかグローリアとかジュディとかジューンとか、そういう名前だ。ラストネームは花とか月とかの響きのよいものでもあったように思うし、あるいはアメリカを代表する富豪と同じいかめしいものだったようにも思う。突っ込んで聞いてみれば、従弟にあたるという自白が得られたかもしれない。
In addition to all these I can remember that Faustina O’Brien came there at least once and the Baedeker girls and young Brewer, who had his nose shot off in the war, and Mr. Albrucksburger and Miss Haag, his fiancee, and Ardita Fitz-Peters and Mr. P. Jewett, once head of the American Legion, and Miss Claudia Hip, with a man reputed to be her chauffeur, and a prince of something, whom we called Duke, and whose name, if I ever knew it, I have forgotten. 加えて、たしかフォースティナ・オブライエンもすくなくとも一度は顔を見せたし、ベデッカー家の娘たちもいた。それからブリュワー青年、これは大戦で鼻を吹き飛ばされた男だ。ミスター・アルバックバーガーとその婚約者ミス・ハーグ。アーディタ・フィッツビーターズ。ミスター・P・ジュウェット、米国在郷軍人会の前会長。ミス・クローディア・ヒップは自分のお抱え運転手という噂の男を連れていた。それからなんとかの王子。ぼくらはかれのことを公爵と呼んでいたけど、名前のほうは聞いたことがあるにしても忘れてしまった。
こういった人々が、あの夏のギャツビー邸にこぞって押しかけてきたのだ。
七月下旬のある朝、九時にギャツビーの豪華な車が我が家の砂利だらけの私道に入ってきて、三和音のクラクションを派手に鳴らした。
ぼくは二回かれのパーティーに行き、水上機にも乗り、しきりの要望を受け、ビーチを頻繁《ひんぱん》に使わせてもらっていたけれど、かれのほうから訪ねてきたのはこれがはじめてだった。
「おはようございます、尊公。今日は御一緒に昼食でも如何ですか。車で御一緒にと思いまして」
かれは車のダッシュボードに手をついてバランスをとりながら、アメリカ人に特有なあのひっきりなしの身振りをしめした――これは、ぼくが思うに、若いころに力仕事をやらなかったせいであり、さらには、ぼくらが秘める神経質で発作的な勝負心が不定形の優美さをともなって現れたものでもあるのではないか。
かれと対話の場をもったのはここまでで六回ほどだろうか、がっかりしたことにギャツビーは口数の少ない人物だった。だからぼくの第一印象、これはなにかひどく重要な人物に違いないと思ったところがだんだん薄れ、隣の豪華《ごうか》な娯楽施設《ロードハウス》の単なる所有者に過ぎないと思えてきていた。
やがてぼくらがウェスト・エッグ・ビレッジへの道をなかばまでも行かないうちに、ギャツビーの優雅な口ぶりはまとまりのないものになり、心を決めかねるといった雰囲気でキャラメル色のスーツの膝を叩きはじめた。
「ところでですね、尊公」と、不意に口を開く。「私のことを、どうお考えですか?」
これにはちょっと参った。そこでぼくは、この手の質問の答えにふさわしい非具体的な一般論を述べはじめた。
「いえね、私は私の過去についてすこしお話しようと思っております」とさえぎられた。
「いろいろお聞き及びと思いますが、そのような噂話から私を間違って理解して頂きたくないということなのですよ」
ということは、かれの大広間に興を添えた、かれに対する奇抜《きばつ》な告発に、当の本人も気づいていたわけだ。
と、宣誓《せんせい》の作法にのっとり、とつぜん右手をあげた。
「私は中西部の資産家の息子です――いまはみな亡くなってしまいましたが。
アメリカで幼少期を過ごしましたが、オックスフォードで教育を受けました。私の先祖はもう何世代もみなあそこで教育を受けているものですから。それが我が一族の伝統なのです」
かれはぼくを盗み見た――そのときぼくは、ジョーダン・ベイカーがかれの言葉を嘘と見込んだ理由がよく分かった。
かれは「オックスフォードで教育を受け」というフレーズを急ぎ足でというか、飲みこむようにというか、喉《のど》にひっかかったように話すのだ。嫌な思い出を話しているみたいだった。
いったんこのように疑ってしまうと、かれの言葉すべてがばらばらに崩れ落ち、つまりは、そこに伏せられている裏みたいなものがなかったかと思いをめぐらす自分がいた。
「中西部はどちらで?」と、ぼくはさりげなく尋ねた。
「一族は全員亡くなりましてね、私は相当の財産を相続することになりました」
その声は厳粛《げんしゅく》そのもので、一族を襲った悲劇にいまだ苦しめられているような口ぶりだった。
Copyright (C) Francis Scott Fitzgerald, Kareha