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The Great Gatsby 華麗なるギャツビー
Chapter5-3
Francis Scott Fitzgerald F・スコット・フィッツジェラルド
AOZORA BUNKO 青空文庫
ギャツビーは、いまだポケットに両手を突っこんだまま、どこをとっても落ちついている、むしろ退屈ですらあるという風を装って、マントルピースにもたれかかっていた。
後ろに大きくそらされた頭は動いていない置時計を抑えつけている。その位置からかれの不安げな瞳は、怯えながらも優美な態度で堅い椅子にちょこんと腰を下ろしたデイジーに向けられていた。
「私たちは以前にも会ったことがあるんですよ」とギャツビーは口にした。
ぼくのほうをちらりと見て笑おうとしたけれど、口を開けただけに終わった。
幸いにも、かれの頭の圧力に耐えかねた時計がこのときがたりと傾いたのを受け、かれは振り向き、震える指先でそれを元にもどした。
それからぎくしゃくとソファに腰を下ろし、肘掛に肘をのせ、あごに手を当て頬杖をつく。
頭の中にはいくらでもあるはずのお決まりの返答が、ひとつも浮かんでこなかった。
「あれは古い時計だから」とぼくは馬鹿みたいなことを言ってしまった。
たぶんその瞬間、その場にいただれもが、時計は床に落ちてばらばらに壊れてしまったものと信じこんだのではないだろうか。
「もうずいぶんお会いしませんでしたね」というデイジーの声はいつになく素直なものだった。
ギャツビーの返答に含まれていた機械的な調子がぼくらをしばらく硬直させた。
ぼくはやけになり、お茶の準備を手伝って欲しいから、と言って二人を立たせようとしたものの、そこにアラビアの魔神《ジン》ならぬフィンランドの家政婦が、茶菓《ちゃか》をトレイに載せて入ってきた。
あれこれ騒ぎながらカップやケーキを並べているうちに、ある種、場の形式的な雰囲気が固まってきた。
ギャツビーは、デイジーとぼくとが言葉を交わしている間、影に控え、緊張と不安のないまざった面持ちでぼくらをかわるがわる見つめた。
が、まだ場に落ちつきがでてこないうちに、最初の機会を得たとたんぼくは中座を詫び、立ち上がった。
「どちらに行くのです?」とギャツビーが即座に尋ねてきた。
かれはぼくを追ってキッチンに入り、ドアを閉めてから呟くように言った。「いやはや、参りました!」みじめな口調だ。
「これはひどい手違いです」と、首をはげしく左右に振りながら言う。「ひどい、ひどい手違いです」
「とまどってらっしゃるんでしょう、それだけですよ」それからうまい具合にこうつづけることができた。「デイジーもとまどってます」
「あのひとがとまどってる?」と、信じられないという口ぶりで復唱する。
「ねえ、子供みたいな真似《まね》はやめてくださいよ」ぼくは苛々してきた。
「それだけじゃない、無作法《ぶさほう》です。デイジーはひとりぼっちでテーブルに残されてるんですからね」
かれは片手を挙げてぼくの言葉をさえぎると、忘れがたい非難の眼差しでぼくを見つめ、それから慎重にドアを開いて、隣の部屋にもどっていった。
ぼくは裏口から外に出て――ちょうどギャツビーが三十分前に神経質に裏から表に回ったように――こぶのある黒い巨木めがけて走った。鬱蒼《うっそう》と広がるその葉が雨をさえぎっていた。
ふたたびぽつぽつと雨が降りはじめ、ギャツビーの庭師がきれいに刈りこんでいった我が家の起伏に富んだ芝生には、泥水がたまった小さな水たまりが散らばり、ところによっては有史以前の沼地みたいなありさまだった。
木の下からはギャツビーの広大な屋敷のほかに見るべきものがなかった。だからぼくは、教会の尖塔《せんとう》を見つめるカントのごとく、三十分ばかりその屋敷を見つめていた。
十年ほど前、「昔風」が熱狂的にもてはやされるようになったころに、ひとりの酒造業者が建てた屋敷だ。そこにまつわるひとつの物語がある。この酒造業者は、もし近隣の家々の所有者が自宅の屋根を藁葺《わらぶき》にしてくれれば向こう五年の税金を払おう、と言ったそうだ。
おそらく、自分の提案が人々から拒絶されたことが、家を起こそうという男の野心を傷めつけたのだろう――男はあっという間に衰えてしまった。
そして子供たちは家のドアに掲げられた喪章も外されないうちにその家を売却した。
アメリカ人は、農奴たることはときに積極的に望みさえする一方で、小作農たることはいつもいつも断固として拒むものなのだ。
三十分後、ふたたび太陽が輝きはじめ、食料品店の自動車が使用人用の食材を積んでギャツビー邸の私道に入っていった――ギャツビーはスプーン一杯分も口にしようとすまいとぼくは見ていた。
一人のメイドがギャツビー邸の上の窓を開けはじめた。窓を開けるたび、その姿を外にさらす。中央の湾曲《わんきょく》した窓を開けたところで、そこから大きく身を乗り出し、なにか物思いにふけりながら、庭に唾を吐いた。
雨が続いている間は雨音が、二人の、ほとばしる感情のままに響き高まる囁き声のように思えていた。
けれども、いまの静寂の中においてぼくは、その静寂が家の中にも垂れこめているのではという気がしていた。
ぼくは室内に入った――入る前にキッチンで、コンロをひっくりかえすのだけは遠慮しておいたけれど、ありとあらゆる騒音を立てておいた――が、二人の耳に届いていたとは思えない。
寝椅子の両端に座った二人は、どちらかが質問を口にしたばかりだとか、あるいはその質問の答えが待たれているかのように、黙ったまま見つめあっていた。あのとまどいはもう微塵《みじん》も残っていなかった。
デイジーの顔には涙の跡が光っていた。ぼくが入ってくるのを見たデイジーは飛びあがるように席を立って、鏡に向かい、ハンカチで顔をぬぐった。
だが、ギャツビーに訪れていた変化はただただ困ったものだった。
顔をまさしく輝かせ、喜びの言葉ひとつ口にせず、喜びのそぶりひとつみせないうちにも、手にしたばかりの幸福感を全身から発散《はっさん》しては、小さな部屋を満たしていたのだ。
「ああ、よくお帰りになりました、尊公」まるでぼくと何年も隔《へだ》てられていたような挨拶だ。一瞬、握手するつもりかと思った。
「そうなのですか?」ぼくが言っていることを、室内に射した陽光を見て認識したギャツビーは、天気予報のにっこりマークそっくりな笑顔を浮かべ、このニュースをデイジーに向かってくりかえした。
「うれしい、ジェイ」という声は、苦痛に満ち、可憐《かれん》な嘆きを含んだものだったけど、それはただ予期しなかった喜びを告げるものにすぎなかった。
「お二人とも、私の家に顔を出して行って貰《もら》えませんか? デイジーにいろいろと見せて差し上げたい」
デイジーは顔を洗うため二階に上がった――ぼくはタオルの状態を思い出し、しまったと思ったが、もう遅い――その間、ギャツビーとぼくとは芝生で待った。
Copyright (C) Francis Scott Fitzgerald, Kareha