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The Great Gatsby 華麗なるギャツビー
Chapter7-5
Francis Scott Fitzgerald F・スコット・フィッツジェラルド
AOZORA BUNKO 青空文庫
「ほらあの、五十番街の映画館は涼しいんじゃないかな」とジョーダンが提案した。
「わたし、だれもいなくなったときのニューヨークの夏の午後が大好き。なんかこう、身も心を奪われちゃうのよね――熟《う》れすぎ、っていうかな、すっごい果物がどんな種類でもみんな取り放題《ほうだい》って感じ」
「身も心も奪われる」という言葉がトムのこころをなおさらかき乱した。けれども、かれが批判の言葉を考えつくより早く、クーペが停まり、路肩に寄せるようにと、デイジーがサインを送ってきた。
「暑いでしょうに」とデイジーは言った。「お行きなさいな、こっちはそこらへんをドライブしてるから。あとで合流しましょ」
どうにか、彼女の貧弱なウィットがひねりだされてきた。「そのへんの街角で待っててあげる。わたしが煙草を二本吸いながら連れを待つ男になってね」
「ここでのんびり議論してるわけにはいかん」とトムが苛立って言った。ぼくらの後ろのトラックから罵るようなクラクションが飛んできていた。
「ついてきてくれ、セントラル・パークの南側、プラザ・ホテルの前まで行こう」
何度か、トムは首ごと後ろを振りかえってかれらの車がついてきているかどうか確かめ、差が開いたときにはスピードを落とし、かれらの車が視界に入ってくるまで待った。
おそらく、かれらが脇道に入りこんだまま、トムの人生から永遠に姿を消してしまうという事態を怖れていたのだと思う。
それでぼくらは、いつの間にか、プラザ・ホテルのロビーに向かうという挙に出ていた。
長丁場《ながちょうば》のかしましい議論は、あの部屋にぞろぞろと入ったところで打ちきられたのだけど、その議論の内容はもう記憶に残っていない。もっとも、議論中の肉感的な記憶、つまり、ぼくの下着がまるで足に巻きついた水蛇のように這い登ってきたあの感覚、背中を断続的に滴り落ちる水滴の冷たい感触は、よく覚えている。
この案を言い出したのはデイジーで、もともとはバスルームを五つ借りて水浴びをしようということだったのだけど、それがもっと具体的な形になって、「ミント・ジュレップを飲める場所」に落ち着いたわけだ。
ぼくらは口々にそれを「クレイジーなアイデア」だと言い放った――ぼくらは面食《めんく》らっている受付に一斉に話しかけながら、自分たちがいまから何か笑えることをやろうとしているのだと思った。あるいは、そう思っているふりをした……
通されたのはむっとする大部屋だった。もう四時だというのに、開けっぱなしの窓から入りこんでくる空気は、セントラル・パークからのなまぬるい風のみ。
デイジーは鏡の前に立ち、ぼくらに背を向けたまま、髪を整えはじめた。
「立派なお部屋ですこと」とジョーダンが感心したようにつぶやいた。ぼくらは声をあげて笑った。
「もうひとつの窓も開けてよ」とデイジーが振りかえることなく命じた。
「要は暑さを忘れることだ」とトムがいらだたしそうに言った。
「愚痴《ぐち》ったところで余計暑く感じるだけだぞ」
ウイスキーの瓶からタオルをほどき、テーブルの上に置く。
「どうしてそっとしておいてあげないのです?」とギャツビー。「街にきたがっていたのは、他ならぬ尊公なのですよ」
電話帳が留金《とめがね》から滑り落ちてばさりと床に落ちた。それを見たジョーダンが「失礼しました」とふざけてみせた――が、今度ばかりはだれも笑わなかった。
と言ったギャツビーは、千切れた紐を点検し、「ふむ!」という不思議な声を発すると、電話帳を椅子の上に投げ出した。
「なかなかたいそうな言葉遣いですね、そうじゃありませんか?」とトムが切りこむように言った。
「その、『尊公』にはじまる口の利き方ですよ。どこでお拾いになったんですか?」
「ねえトム」とデイジーが鏡から振りかえって言った。「個人攻撃に出るつもりなら、わたし、いますぐにでも帰っちゃうからね。電話して、ミント・ジュレップ用の氷を頼んでよ」
トムが受話器を取り上げたとたん、濃密な熱気が爆発して音と化し、階下の大広間から、メンデルスゾーンの『結婚行進曲』の大げさな演奏が響いてきた。
「冗談じゃない、この暑い中に誰かと結婚するなんて!」とジョーダンが憂鬱《ゆううつ》そうに言った。
「それがねえ――わたしも結婚したのは六月半ばだったのよね」と、デイジーが昔をふりかえって言った。「六月のルイビルよ!
だれかが倒れちゃってたな。倒れたの、だれだったっけ、トム?」
「ビロクシーってひと。“|石くれ《ブロックス》”ビロクシーって言ってね、ボックスを作るのが本職で――本当よ――しかも、テネシー州ビロクシーからきてた」
「そのひと、うちにかつぎこまれたのよね」とジョーダンが後を継ぐ。「うちは教会から二軒めのところにあったから。
そのまま三週間も居座ってくれてさ、結局、パパから出て行ってもらわないと困るって言われてやーっと出てったんだから。
すこしだけ間を置いて、こうつづけた。「別に関連があるわけじゃないんだけど」
「メンフィスのビル・ビロクシーって人なら知ってるけど」とぼくが言った。
「それは従弟なんだって。出て行くまでにあのひとの家族のことを何もかも知っちゃってね。あのひとがくれたアルミニウムのパター、今も使ってるのよ」
式典の始まりとともに音楽がやみ、長く尾を引く喝采《かっさい》が窓のところから聞こえてきた。それに次いで「よッ――よッ――よッ!」という掛け声が響きわたると、ついに、ダンスの始まりを告げるジャズが炸裂した。
「年をとったものね、わたしたち」とデイジーが言った。「若ければ、腰を上げてダンスってところなのに」
「ビロクシーの二《に》の舞《まい》になりそうね」と、ジョーダンが警告するように言った。
「ビロクシーと?」かれは骨を折って話に集中していた。
「おれの知った顔じゃなかったよ。デイジーの友だちだ」
「それは違う」とデイジーが否定する。「会ったことないひとだったもの。あなたが借り切った列車できてた」
「ふうん、あいつはおまえの知り合いだって言ってたがな。ルイビルで育ったとかで。
エイサ・バードが直前になって連れてきて、空いた席がないかって聞いてきたんだ」
「たぶん、故郷に帰るまでの足代《あしだい》をたかってったのよ。イェールではあなたたちのクラスの級長だったって言ってたっけ」
落ちつきなく床をとんとんと踏み鳴らしたギャツビーに、トムが不意に目を向けた。
Copyright (C) Francis Scott Fitzgerald, Kareha