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The Great Gatsby 華麗なるギャツビー
Chapter7-4
Francis Scott Fitzgerald F・スコット・フィッツジェラルド
AOZORA BUNKO 青空文庫
かれは、ぼくとジョーダンがことのすべてを知っていたことを見抜き、ぼくに鋭い眼差しを送ってきた。
「おれのことをとんだ間抜けだと思ってるんだろう、違うか?」とかれは言い出した。
「ひょっとしたらそうかもしれん。でもな、おれには――第二の視点とでも言おうか、そういうものがあってだな、ときどき、それがおれに今から何をすべきか、教えてくれるんだよ。
もしかしたら信じてもらえんかもしれんが、それでも科学的に言って――」
目下の事情がかれを支配し、空理空論《くうりくうろん》の奈落《ならく》に飛びいる寸前のかれを引きもどした。
「おれはあいつのことをちょっと調べてみた」と、かれは話をつづけた。
「あまりディープにつっこんで調べることまではできなかったが――」
「なるほど、|霊媒《ミディアム》のところくらいまではいけたってことね?」ジョーダンがふざけてそう訊ねた。
「なんだって?」かれは、笑いだしたぼくらをわけがわからずに見つめた。「霊媒?」
「ギャツビーのことで? まさか、霊媒に会ってどうする。おれが言ってるのは、あいつの過去をちょっと調べてみたってことなんだよ」
「そしてあなたはかれがオックスフォードの卒業生だと言うことを知りました」とジョーダンが続きを代弁する。
「オックスフォードの卒業生ね!」そんなことがあるかと言わんばかりの口調だ。
「いやはや、死ぬほどありえそうな話だよ。ピンクのスーツを着てるくらいだからな」
「それでもオックスフォードを出たってことには変わりない」
「ニュー・メキシコのオックスフォードとかな」とトムは馬鹿にしたように言う。「なんにせよ、そういう代物に決まってる」
「ねえ、トム。そんな野暮《やぼ》なことを言うくらいなら、なんであのひとをランチに呼んだりしたのよ?」とジョーダンは癇《しゃく》に障《さわ》ったようすで絡んだ。
「デイジーが呼んだんだ。結婚前からの知り合いらしい――どこで知り合ったんだか見当もつかんがね!」
ぼくら全員はエールの酔いからさめてゆき、苛立ちはじめた。それに気づいたぼくらは、しばらく黙ったままドライブを続けた。
そのうち、T・J・エクルバーグ博士のぼやけた瞳が道路の向こうに見えてきた。ぼくはガソリンについてのギャツビーの警告を思い出した。
「でもそこにリペアガレージがあるじゃない」とジョーダン。「この暑さの中で立往生なんて、わたし嫌よ」
トムはいらだたしげに両方のブレーキをかけた。ぼくらはウィルソンの看板の下の、埃《ほこり》っぽい位置へと出し抜けに滑りこんだ。
少し遅れて経営者が家具の陰から出てきて、虚《うつ》ろな瞳でぼくらの車を見つめた。
「なんのために車を停めたと思ってる――景色を眺めるためだとでもいうのか?」
「具合が悪いんです」とウィルソンはぴくりとも動かずに言った。
電話してきたときはなんともないみたいだったじゃないか」
大儀そうに、もたれかかっていた戸口から体を起こし、日陰から出てきたウィルソンは、はあはあとあえぎながら、タンクのキャップをねじ開けた。
ただ、ひどく金が要りようになったものですから、昔のお車をどうなさるおつもりだろうと思いまして」
「こいつは気に入らないか?」とトムは訊ねた。「先週買ったやつだ」
「黄色のいい車ですね」と苦しげにタンクのハンドルを操りながら、言う。
「ビッグ・チャンスですね」とウィルソンは弱々しい笑顔を作った。
「でも無理です。あっちのほうだったらいくらか儲かるんですが」
「私はここに長居しすぎました。ここを出たくなりました。私も、妻も、西部に行きたいんです」
かれは手で目元に影を作りつつ、ポンプにもたれかかってしばらく休んだ。
「あれはここを出ますよ、本人の意思に関係なくね。私はあれを連れていきます」
クーペが砂埃を立てて通りすぎて行った。誰かが手を振っているのが一瞬だけ見えた。
それでここを出ようと思ったわけでして。それで、お車のことであなたを煩《わずら》わせてしまったわけです」
容赦のない熱気にぼくの頭は混乱しはじめていた。かれの疑惑がトムに向けられているわけではないということに気づくまでの間、ぼくはひどく気まずい思いをした。
ウィルソンは、マートルが自分と離れた世界での生活を送りはじめたのを見抜き、ショックのあまり、肉体的に参ってしまったのだ。
ぼくはウィルソンを見つめ、それからトムを見つめた。一時間足らずの間におなじようなことを発見したトムを――ふとぼくの頭に、人間というものは、精神的にも人種的にも、病人と健康人の間ほどの相違はないのではないだろうか、そんなことが思い浮かんだりした。
ウィルソンの病みようといったら、罪を抱えているようにも見えた。何か許されざる罪を――まるで、どこかの貧しい娘に子供を孕《はら》ませたとでもいうような。
「あの車はおまえに任せるよ」とトムが言った。「明日の午後、持ってこさせよう」
その付近はいつも、太陽が照りつける午後であってすら、どこかしら不穏《ふおん》なところがあって、ぼくは背後から警告を投げかけられたような気がしてふりかえった。
灰の山の上から、T・J・エクルバーグ博士の巨大な瞳がいつもの監視を続けていたけれど、そのうちぼくは、六メートルと離れていないところから、別の瞳がおかしなほど感情的にこちらを見つめているのに気がついた。
ガレージの二階の窓のカーテンがほんの少し開かれていて、そこから、マートル・ウィルソンが車のほうを窺っていた。
他のものなど目に入っていないらしく、逆に見られているということをまったく意識していない。現像中の写真に見られる物体のように、ある感情がその顔に浮かび上がったかと思うと、次の瞬間には異なる表情が入りこんでいた。
それは不思議と見なれたものだった――ぼくが女性の顔にしばしば見出してきた感情表現だ。だが、マートル・ウィルソンの顔にそれが浮かんでいるのは、意図も不明であれば、説明もつかないように思った。やがて、嫉妬心に大きく見開かれたその瞳が捉えているものが、トムではなく、ジョーダン・ベイカーだと気づくまで。マートルはジョーダンをトムの妻だと思いこんだのだ。
単細胞の混乱に匹敵《ひってき》する混乱はない。トムは車を走らせ、ガレージから遠ざかりながら、パニックの熱い鞭《むち》の存在を感じていた。
かれの妻とかれの情婦は、一時間前までは安全で不可侵な存在だったのに、いま、まっさかさまにかれのコントロールから滑り落ちつつある。
本能的に、二重の目的をもってトムはアクセルを踏みこんだ。ひとつはデイジーに追いすがるため、もうひとつはウィルソンを置き捨てるため。ぼくらは時速八十キロでアストリアに向かい、やがて、蜘蛛《くも》の脚を思わせる高架の橋桁の間をのんびり先行している青いクーペの姿をとらえた。
Copyright (C) Francis Scott Fitzgerald, Kareha