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The Great Gatsby 華麗なるギャツビー

Chapter8-2

Francis Scott Fitzgerald F・スコット・フィッツジェラルド
AOZORA BUNKO 青空文庫
 ロング・アイランドの夜が明けようとしていた。ぼくらは一階に降りて残りの窓を開いてまわり、戸内を灰色から金色へと変調する光が満ちるにまかせた。
いつの間にか朝露に覆いかぶさるように木陰が現れ、青々とした葉群《はむら》の中からは、どこに隠れているのだろう、鳥たちの歌声が聞こえはじめる。
空気の流れはゆったりと快適で、風もほとんどなく、涼しくて過ごしやすい一日になりそうだった。
「デイジーはあの方を愛したことなどないと思います」と窓から振りかえったギャツビーは、挑みかかるようにぼくを見つめた。
「覚えておられますよね、尊公、あの午後、デイジーがひどく興奮していたことを。
あの方がああいう伝え方をしたせいでデイジーは怖くなってしまったのです――あれでは、まるで私が安っぽい詐欺師《さぎし》みたいに聞こえてしまう。
その結果、デイジーは自分が何を言っているのかすら分からなくなってしまった」
 かれは憂鬱そうに腰を下ろした。
「勿論、デイジーもあの方のことを少しくらいの間は愛していたのかもしれません。結婚した時くらいは――それでも、その時にしても私のことをもっと愛していたのです、そうでしょう?」
 ここでふとかれは不思議な発言をした。
「いずれにしても」とかれは言う。「個人的なことにすぎません」
 みなさんならどうお考えになるだろうか? 一連の出来事にかける思いが桁外《けたはず》れに強いことを察することくらいはできるにせよ、しかし、これはきっとそれどころではない気もする。
 かれがフランスからもどってきたとき、トムとデイジーはまだ新婚旅行の途上にあった。かれは軍人としての俸給《ほうきゅう》の残りをはたき、ルイビル行きの旅にでた。みじめな旅だったが、行かずにいることはできなかった。
そこに一週間滞在して、あの十一月の夜に二人で足音を響かせた通りを歩いたり、デイジーの白い車でドライブした人里離れた場所を再訪したりした。
デイジーの屋敷は、以前のとおりに、他の家々よりも神秘的で快活に見えて、デイジーがいなくなった後であってさえも、街そのものにメランコリーな美しさが染みわたっているように思えた。
 もっと一生懸命に探せばデイジーを見つけられるのではないかと感じながら、かれは去った――つまり、デイジーを置き去りにするように感じながら。
普通客車は――かれは文無しになっていた――暑かった。
オープンデッキにでて折りたたみ椅子に腰かけた。駅舎と見なれないビルの後背が流れていった。
やがて列車は、春の野原にでた。路面電車が一便、しばらく平行して走っていた。電車の人々も、かつて、いきずりの通りで彼女の青白い顔にあった魔力を目のあたりにしたことがあったかもしれなかった。
 線路はカーブして太陽から遠ざかっていく。その太陽はといえば、沈むにつれ、かつては彼女がひっそりと存在していた消えゆく街に、じんわりと恩寵《おんちょう》を与えていくかのようだった。
かれは必死に手を伸ばし、その空気のかけらを一握りつかんで、彼女がいてこそ魅力のあったその場所を、断片だけでも手に入れようとした。
けれども、かれの潤《うる》んだ目にはなにもかもがあまりにも速く通り過ぎていき、そのときかれは、そこに息づいていた、もっとも溌剌《はつらつ》としていてもっともすばらしい部分を、永遠に失ってしまったのだと思い知らされたのだ。
 ぼくらが朝食を終えてポーチに出たのは九時のことだった。
一晩で気候はすっかり変わってしまい、空気にも秋の香りが感じられた。
以前からギャツビーが雇っていた使用人の中では最後のひとりになっていた庭師が、ステップの前までやってきた。
「今日はプールの水を抜いてしまおうと思っております、ミスター・ギャツビー。もうすぐ落ち葉が散りはじめますし、そうなりますとパイプが詰まってしまいますもので」
「今日はよしておいてくれ」とギャツビーは答えた。
それから、詫びるようにぼくのほうに向き直った。
「お分かりでしょう、尊公? 私はこの夏というものずっとあのプールを使わなかったものですから」
 ぼくは自分の時計を確認し、立ちあがった。
「列車まであと十二分」
 ぼくはニューヨークに出たくなかった。仕事に立ち向かう気力がまったく残っていなかったというのもあるけれど、それだけではなかった――ぼくはギャツビーを置いていきたくなかった。
乗るつもりだった列車を見送り、その次の列車もパスし、それからようやくぼくはこの場から自分を引き離すことができた。
「電話しますね」ぼくはとうとう言った。
「どうぞ、尊公」
「お昼ごろ、電話しますね」
 ぼくらはゆっくりとステップを降りていった。
「デイジーも電話してくると思います」かれはぼくを不安そうに見つめた。そうなるようにぼくにも協力してほしいとでも言いたかったのだろうか。
「ぼくもそう思います」
「では、さようなら」
 かれと握手を交わして、ぼくは歩きはじめた。
生垣《いけがき》の寸前でぼくは忘れていたことを思いだし、くるりとふりかえった。
「あいつらはみんな腐ってる」とぼくは芝生ごしに叫んだ。
「きみにはあの連中をみんな足し合わせたくらい価値がある」
 ぼくはこれを言ったことを思い出すたびに嬉しくなる。
ぼくは最初から最後までかれのことを認めなかったから、かれを誉めてやったのはこのときだけになってしまった。
最初、かれは礼儀正しくうなずいた。それからあの理解を思わせる晴れやかなほほえみを満面《まんめん》に浮かべた。その顔さえあればぼくらはずっと天にも昇る心地でたばかっていけるのだと思った。
かれの華美なピンク色のスーツが白いステップに異彩《いさい》を放っていた。かれの歴史ある土地に、ぼくがはじめて足を踏み入れた夜、あの三ヶ月前の夜を想った。
芝生も私道も、ギャツビーの堕落《だらく》をいい加減に推しはかる人々の顔で埋めつくされていた――ギャツビーはやはりステップに立ち、堕《お》ちるはずない夢を胸に、かれらに向かってさようならと手を振っていた。
 ぼくはかれの手厚いもてなしに感謝した。ぼくらはいつもかれの手厚いもてなしに感謝していた――ぼくだってそう、だれだってそうだった。
「さようなら」ぼくは呼びかけた。「楽しい朝食だったよ、ギャツビー」
 街に出て、果てしなく続く株の出来高《できだか》をまとめたリストを作っていると、いつのまにか自席の回転椅子に座ったまま眠りに落ちていた。
昼前、電話の呼出音《よびだしおん》に目を覚ましたぼくは、飛びあがって額の汗をぬぐった。
ジョーダン・ベイカーからだった。ジョーダンはこの時間に電話してくることが多かったが、それはホテルやクラブや知人の家々を渡り歩く彼女にとって、それ以外の方法を見繕《みつくろ》うのが困難だったからだ。
ふだん、受話器から聞こえてくるジョーダンの声は溌剌として涼やかで、緑豊かなゴルフコースからクラブのひとふりに跳ね飛ばされた芝生が会社の窓から飛びこんでくるみたいだったけれども、その日はとげとげしく乾いた調子だった。
「デイジーのところを出たの。いまヘンプステッド。午後のうちにサウザンプトンまで行こうと思ってる」
 おそらく、デイジーの家を出るという処置は機転《きてん》の利《き》いたものだったのだろうが、ぼくはその行為を不快に感じた。そして次のジョーダンの発言を聞いて、頑《かたく》なになってしまった。
「昨日はちょっとひどかったんじゃない」
「あの状態でそんな余裕があると思う?」
一瞬、沈黙があった。
「それでも――わたし、あなたに会いたい」
「ぼくだって会いたい」
「サザンプトン行きはとりやめて、午後はニューヨークに出てきてもいいんだけど」
「いや、今日の午後はちょっと――」
「わかりました」
「今日の午後は無理なんだ。いろいろと――」
 ぼくらはこんな調子でしばらく話しつづけ、ふと気がつくと、どちらも何も話さなくなっていた。
がちゃんと受話器を置いたのはどちらだったのか分からないけど、ぼくがもはやどうでもいいという気分でいたのは分かっている。
その日を境にこの世界でジョーダンと話す機会が永遠に失われるとしても、テーブル越しにお茶を飲みながら話し合うことなどできそうになかった。
 
Copyright (C) Francis Scott Fitzgerald, Kareha
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